第九話 煙水晶(三/四)

文字数 4,958文字

「あの。本当にすみませんでした。彼女――突然うちを訪ねて来て。しかも、あの菊花石はどこにあるのかって。だけど、もうこちらも手放した後だったし、祖父はいないし――それで、ここに連れて来てしまったんです。でも……こんなことするべきじゃありませんでした。ご迷惑をおかけしました」
 少女が桜について行った隙をついて、葵はあらためて槐に頭を下げた。
 初めて会ったときは年相応の少年だと思ったが、話してみると、考えも言動も年の割にしっかりしている。それでいて、少女を追い返すこともできなかったあたり、優しくもあるのだろう。そのせいで板挟みになったことは、かわいそうではあるが。
 悄然としている葵に、槐は苦笑する。
「そんなに気にしなくても、大丈夫ですよ。現に、菊花石はここにあるんですから」
「でも、あくまでもうちの取り引きですし、こちらで解決すべきことだったと思います。勝手なことして。このことを知ったら、祖父もきっと怒るでしょうし……」
 葵の心配はそこにもあるようだ。先のことを思ってか、葵は重いため息をつく。
 花梨たちが連れ立って通り庭に着く頃には、店への戸は開け放たれていた。
 しかも、目当ての箱はすでに少女の前に置かれている。数日前に片づけたばかりのものだからか、さすがに積み上がった箱の中から発掘しなければならない、ということはなかったらしい。ただし、部屋のあちらこちらには、いまだに箱や石が散乱していた。
 箱にしまわれていた石を、桜が取り出す。木製の台の上に乗った、磨かれた石。その表面には、大輪の白い菊の花が――
「あれ? 花がない……」
 少女が呆然と呟いたとおり、菊花石の美しい模様は影も形もなかった。そこにあるのは、ただのっぺりと磨かれた暗灰色の岩石だけ。
「これ、本当にあの菊花石ですか?」
 不安そうな表情で、少女がたずねる。
 疑うのも無理はないだろう。とはいえ、一度しか見ていない花梨では、これが本当にあのときの石なのかどうかは自信が持てない。しかし、傍らで見ていた葵は、断言はしないながらもこう呟いた。
「確かにこんな形だったと思うけど……」
 槐も桜も、箱に入れられた石があの日に受け取った菊花石であることは間違いないと言う。しかし、模様が消えていることについては、ふたりとも驚いているようだった。
 少女はあらためて、その石に向き合う。そうして、まじまじとながめているうちに、何かを見つけたらしい。顔をしかめながらも、こう言った。
「そう、だね。この台の傷、見覚えがある。やっぱりこれ、あの菊花石だ」
 石の形に合わせて作られたらしい台には、その石がちゃんと収まっていた。他の石と取り違えた、ということはないだろう。
 戸惑いの中で、少女は誰にともなく問いかけた。
「でも、こんなことって、あるんですか?」
「――いや。こんなことが、そうそうあるわけがない。そうだろう? 槐」
 問いかけに答えた声は、その石を取り囲んだ者たちのうちの、誰のものでもなかった。
 部屋の奥。箱と石に埋もれた場所の暗がりに、誰かが座っている。明るい茶色の髪と、焦茶の着物に羽織。その者は、少し猫背気味の背をこちらに向けていた。
「えっと……店の人?」
 少女がいぶかしげにたずねる。
「ええ。まあ……ある意味」
 答えたのは桜だ。彼は表情を曇らせると、小声でさらにこう続ける。
「珍しいですね。煙水晶(けむりすいしょう)さんが姿を現すの」
 花梨が首をかしげると、それに気づいた桜はこう言った。
「いえ。煙水晶さん、ちょっと人嫌いで……」
 背を向けていた人影――煙水晶は、その言葉が耳に入ったかのように、不機嫌そうな顔で振り向いた。
 彼の手には煙管(きせる)が握られている。そして、それを気だるげにくゆらせていた。そのたびに彼の周囲はかすむように煙っていくが、その煙は現実のものではないのか、どんな匂いもしないようだ。ただ、その煙のせいで、辺りの視界は徐々にぼんやりとしたものになっていく――
 黙り込んでしまった皆を見渡して、煙水晶は口を開いた。
「菊花石の菊の花が枯れるなど、そうそうあることではない。だからこそ、そのことには意味がある。その石は、ものを言うことができない。それ故に、そういう形で訴えたのだろう。怨嗟か、嘆きか――どちらにせよ、それもまたどうせ、人の愚かな行いのため、といったところだろうが」
 煙水晶はそう語る。
 突然のことに、葵は、ぽかんと口を開けて固まった。しかし、菊花石のこととあってか、少女の方は果敢に問いかけていく。
「えっと、その……訴えてるって、何を? この石が心を持ってるってこと?」
 煙水晶はその問いに、ゆるゆると首を横に振った。
「ただの石は、心など持たない。しかし、すべてのものに魂はある。魂には記憶が刻まれる。だから、夢を見る。私もただの石だった頃はそうだった。おまえもそうだったろう? 桜石」
 唐突に話を振られて、桜は間の抜けた声を上げた。
「はあ……いや、それはともかく。何のために出てきたんですか。はっきり言ってくださいよ。煙水晶さん」
 それを聞いて、煙水晶は一笑した。
「わからないかな。言葉を持たないそれに変わって、私がそれの願いを見てやろうと言うのだ。私の力があれば、それの見る夢をのぞき見ることができるからな」
 煙水晶の視線は、少女へと向けられている。しかし、自分の理解を越えた話に、少女もまた、困ったような顔で口を閉ざしてしまった。その代わり、苦笑混じりに問いかけたのは、槐だ。
「いいのかな。煙水晶。君は夢をのぞくことが、あまり好きではなかったと思ったのだが」
 煙水晶はむくれた顔で、煙管をふかす。
「何。私はそいつらのことなどは、どうでもいい。ただ、言葉を持たないその石のことが哀れでならないだけだ」
 煙水晶はそう言うと、おもむろに立ち上がり、少女の眼前に立った。そして、あらためて問いかける。
「さて、どうする? ()の強い人の夢など見たくもないが、その石の夢なら見せてやろう」
 少女は呆然とした表情で煙水晶を見上げた。いまだ理解が追いつかないらしく、ただまたたきをくり返している。
「いくら何でも、いきなり過ぎなのでは。彼女、困ってますよ。どうします。槐さん」
 呆れた様子の桜に、槐はうなずく。
「そうだね、ただ――」
 槐はその先を言い淀むと、困惑する少女の傍らに立った。そうして、いつものように、こう話し始める。
「彼は煙水晶。英語名はスモーキークォーツ。鉱物名としては石英ですが、結晶した透明なものは、特に水晶と呼ばれます。煙水晶は、その変種。天然の放射線により、含まれる微量のアルミニウムイオンが変化したことで茶色くなるのです」
 わけがわからないながらも、少女は槐を見返した。それに応えるように、槐はこう続ける。
「彼は夢を垣間見る力がある。もしも、この菊花石の夢を見ることができるなら、何か事情がわかるかもしれません」
「えっと、よくわからないんだけど……夢を見るって――そんなこと、できるんですか?」
 疑わしげに声を上げたのは、葵だ。突然の混乱から覚めて、ようやく現実的な感覚が戻ってきたらしい。
 どうやら、彼の方は煙水晶の言葉を信じてはいないようだ。それを察したのか、煙水晶は葵に冷たい視線を向ける。
「できるとも。ただし――」
 煙水晶はそこで、煙管の雁首を少女の方へ向けた。差された少女は、思わず後ずさる。
「見るのは君ひとりだ。関係のない者にまで、夢をのぞき見させるつもりはない」
 その場にいた皆の視線が、少女の元へ集まった。彼女は表情を強張らせたが、しばし考え込んだあと、ふいに大きく息をはく。
 少女の視線が、今はその姿を変えてしまった菊花石の方へと向けられる。そこからあらためて煙水晶へと向き直ると、彼女は意を決したように、こう言った。
「わかりました。お願いします」

     *   *   *

 そう告げた途端、視界は煙で閉ざされた。
 あるのは真っ白な空間ばかりで、その他には何も見えない。ここはもう、夢の中なのだろうか。驚きつつも、次に変化が起こるのを待つ。
 とんでもない話に乗ってしまったが、実際のところ、どうなのだろう。夢を見る――それも石の――なんて、本当にできるのだろうか。
 石は心を持たないのだと言う。しかし、なぜか夢は見るらしい。夢と心はどう違うのか。
 不安が押し寄せてきた頃、ふと目の前に見知った人の姿が現れた――母だ。
 母は祖父の菊花石を黙って見下ろしている。見られていることには気づいていない。というより、一方的にその光景が見えているだけのようだ。これが夢、なのだろうか。
 もしかして、今見ているこれは母が菊花石を売ってしまったときの記憶かもしれない。母の表情からは、明らかに迷いか――あるいは、ためらいが読み取れた。
 祖父は母にとっては義父に当たる。しかし、別に仲が悪かったわけでもない。と、少なくとも自分はそう思っていた。かといって、お金に困ったから石を売った、というわけではないだろう。
 どうして母は、そんなことをしたのだろうか。そう思った瞬間、場面が変わった。次に現れたのは、五年前に病気のため亡くなった祖母の姿だ。
「私は、もうそろそろだめそうだねえ」
「そんなこと――」
 と、傍らで顔をしかめているのは、やはり母だ。
 重い病気が見つかった祖母は、病院で治療をしていたが、そのまま帰らぬ人となってしまった。しかし、今見ているのは、祖母がまだ元気だった頃の光景のようだ。
「あのね。私、ひとつだけ心残りがあるの」
「何ですか。お義母さん」
「おじいさんが大切にしている、菊花石があるでしょう」
 菊花石の話だ。思わず耳をそばだてる。どうして母が菊花石を売ったのか。その理由が、この会話にあるのかもしれない――
「これは、私の勘なんだけどね。たぶんあれには、私の知らない、おじいさんの想い人との思い出があると思うの。だから、あの人に最後まで寄り添うことができるのが、あの菊花石になりそうなのが、何だか少し、悔しくて」
 それは、思ってもみない祖母の告白だった。しかし、祖母はそう語ったことを少し後悔するかのように顔をしかめると、苦笑を浮べながらこう続ける。
「ごめんなさいね。気弱になってしまったわ。忘れてちょうだい。ちょっとした愚痴なの。あの人には、内緒よ」
 その言葉を最後に、目の前の光景は煙にかき消えた。
 祖父の菊花石の中にある、ひそかな思い出。それに対する祖母の考え。それを知ってしまった母の迷い。これが、母が菊花石を売ってしまった理由なのだろうか。
 そう思っていると、また徐々に視界が開けてくる。
 ――何? これで終わりじゃないの?
 見えてきたのは、小学生くらいのときの自分の姿。祖父とともに菊花石をのぞき込んでいる光景だった。
 しかし、その場面はすぐに変わっていく。次に現れたのは、若い父と母の姿。まだ歩くことすら覚束ないほど小さな自分が、ぺたぺたと無邪気に菊花石を叩いている。
 さらに場面が切り替わると、若い頃の祖母に向かって自慢げに菊花石の話をする――これも若い祖父の姿が見えた。かと思えば、祖母ではない、別の女の人と笑っている祖父の光景もある。初めて菊花石を見つけたらしい祖父が、その持ち主に頼み込んでいる姿も。
 目まぐるしく流れていく、過ぎ去った光景。それが次々に目の前に現れては消えていく。この菊花石には、こんなにも多くの記憶が、歩みがあったのか。
 ――これが、菊花石の記憶。石の見る夢?
 石に心はない、と先ほどの人は言っていた。でも、この記憶を見ていると、石はやはり祖父と離れたことが寂しいのではないか、とも思った。
 しかし、祖母の気持ちも、わからないではない。それこそ、菊花石はずっと祖父の傍らに有ることができるけれど、祖母の命は――もう長くはなかった。その最後の思いを、母は汲んだのだ。
 決して菊花石の存在を軽んじた訳ではない。むしろ祖父にとって大きな存在だったからこそ、置いてはおけなかった。
 きっと祖母も寂しかったに違いない。そして、自分の運命を怨んでもいた。その気持ちだって、真実だ。
 どうすればよかったんだろう。どうすれば、誰も悲しまずに済んだのか。
 答えが出ないままに、夢は終わっていく――
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