第33話

文字数 1,490文字

33
それから一週間、僕は鈴ちゃんと会うことが無かった。体育祭の練習が始まり帰るのが遅くなるから、家庭教師は中断したいと連絡があった。思えば、僕が体調を崩して寝込んだ日々を除けば、毎週鈴ちゃんと会っていたのだから、会わないことが非日常のように感じられた。僕は一日に一回ゴミ箱に手を突っ込んで声を聴き―一日に一回が限界だった―、『吾輩は猫である』を読んで過ごした。
 さらに一週間、家庭教師は中断されたままだった。僕は公園をランニングし、ゴミ箱の声を聴き、相変わらず『吾輩は猫である』を読んでいた。本を読む時間はいくらでもあったのに、読むペースは上がらなかった。
 公園をランニングしている時、一匹の猫と出会い懇意になった。懇意になったというのはいささか変な表現だけれど、その猫は僕の膝の上で気持ちよさそうに眠った。だから、少なくとも僕は懇意になったと思っている。『吾輩は猫である』を読んでいる時に一匹の猫と出会うのはなんだか不思議な巡り合わせだと思った。そしてその猫に全てを見透かされているような気がした。
「明日、お姉ちゃん東京に帰る」と鈴ちゃんからメールが来たのはその週の終わりのことだった。「先生には伝えてないって言ってたので、私から伝えておきます」。伝えるも何も、お互いに連絡先を知らないのだ。家庭教師が中断したことで竹内宅にも行っていない。あの日以来、栞さんとは会っていない。見送りに行きたいと僕は思った。さよならは言えるうちにしか言えない。
「連絡ありがとう」と鈴ちゃんに返事を送った。でも、栞さんの連絡先を鈴ちゃんに聞くのがどうしても憚られた。聞けばいいのだろうけど聞けなかった。僕は飛鳥に電話をした。普段僕から電話をかけることなんてないから飛鳥はひどく怪しんだ。
「なに?奈緒から電話してくるなんて怖いんだけど。明日は雨が降るかも」
「明日は晴れてほしい」と僕は言った。
「で、どうしたの?」
「栞さんの連絡先を教えてほしい」
「なんだ、そんなことか。いいよ。あっでもちょっと待ってね、教えてもいいか、一応栞さんに確認してみるから」
「お願い」
「でも奈緒さ、鈴ちゃんの家庭教師やってるんでしょ。鈴ちゃんに聞いたらいいじゃん。ていうか、家に行った時に会わないの?直接聞けばいいじゃん」
「そうなんだけど、そうなってないから飛鳥に聞いてんの」
「はいはい、わかった」と飛鳥は言った。「じゃあちょっと待ってて。聞いてみるから」
 飛鳥から連絡を待っていると、知らない番号から電話がかかってきた。栞さんだった。
「もしもし、小川さんですか?竹内です」
はいと僕は返事をした。
「飛鳥ちゃんから連絡が来て、小川さんの番号を教えるから連絡して欲しいって言われたんだけど」
 ちょっと話がずれているけど、まぁいい。
「栞さんの連絡先を知らなかったから飛鳥に聞いたんだ」
「そういうことか。そういえば、交換してなかったね。これが私の番号だから」
「明日東京に戻るって鈴ちゃんから聞いたから、その前に連絡したくて。明日、見送りに行くよ」
「いいよ、わざわざ。ただただ東京に戻るだけなんだし」
「ちゃんと顔見て挨拶しておきたいから」
「そんな、一生の別れじゃないんだから」
「一生の別れなんていつ来るか分からない。来てからじゃ遅い。会える時に会っておかないと後悔する」
一瞬間が空いたあと、「若菜さんのこと?」と栞さんは言った。
「ごめん、栞さんと若菜は関係ないのにね」
「私の方こそ、無神経だったかもしれない。ごめんなさい」
「栞さんは悪くない」
「じゃあ見送り待ってる。一時の新幹線で帰るから、お昼ご飯でも一緒に」
「分かった、また連絡する」
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