第1話

文字数 4,693文字


「みあんちゃん、アイスコーヒーひとつ」
「みあんちゃん?」
 カウンターの向こうでゆみ姉は怪訝な顔をした。喫茶店の中は陽の光が入って明るく、その表情をよく見ることができた。
「何?その呼び方」
「いや、『細雪』を読んでさ、あーゆう呼び方良いなと思って」
「細雪?雪子のきあんちゃん?」
「そう」
「それで有美子だからみあんちゃん?」
「そう」
 ゆみ姉はアイスコーヒーを作り始めた。
「私は呼ばれ慣れてる“ゆみねえ”の方がしっくりくるんだけど。それに、そんな呼び方して私の婚期を遅らせるつもり?」
「まさか。それはゆみ姉の問題でしょ」
 近くに座ってパソコンで作業しているスーツ姿の男性が僕らの会話を聞いて笑った。ゆみ姉はアイスコーヒーと、サービスでチーズケーキを出してくれた。僕はチーズケーキをフォークでひとすくいして口に運んだ。
「ねえ、『細雪』ってさ、大洪水が起こったり、身内が生死の淵をさまよったり、身内の婚約者が亡くなったり、そこそこ深刻な出来事が生じるのに、重たく感じないのはどうしてだろう」と僕はゆみ姉に訊いてみた。
 ゆみ姉は『細雪』の内容を思い出そうとするように腕を組んで天井を見上げた。
「確かに言われてみればそうかもしれない。うん、重たくはないね」
「何でもないこととまでは言わないけど、さらっと書いてあるでしょ?」
「漱石が『門』で描いた重たい内容もさらっと流れるように書かれてある」ゆみ姉は何かを確かめるみたいに何度か頷いた。
「何でだと思う?」と僕は訊いた。
「何でだろうね。分かんない。本人に訊いてみたら?」
「谷崎に?」
「そう」
「どうやって?」
「それは自分で考えり。あんたももう大学生でしょ」
 僕はその方法を考えてみた。黄泉へのポストなるものがあれば手紙を届けることができるかもしれない。でも、誰がどうやって届けるのだろうか。三途の川の手前まで僕が近づき、谷崎に川の向こう側まで来てもらえれば手紙を紙飛行機にして飛ばして渡すことができるかもしれない。あるいは親切な誰かが川に橋をかけてくれていれば橋の中ほどで「あの…ちょっとお尋ねしたいことが…」と直接話ができるかもしれない。
「今何考えてた?」とゆみ姉が僕の妄想を遮った。遮ってくれてよかった。こんなこと考えても仕方がない。
「紙飛行機の強度について」と答えて、チーズケーキを食べ、コーヒーを飲んだ。黄泉の国にチーズケーキとコーヒーはあるのだろうかと思った。
 ゆみ姉は僕の返答には触れずに「大学はどう?」と話を続けた。
「それなりに楽しく通ってるよ」
「彼女はできた?」
「いいや」と言って僕は首を振った。
「若菜のこと気にしてるの?」
「そういうわけじゃないんだけど」
「若菜のことは気にしなくていいんだからね。若菜だってなおちゃんが一人でいることを望んでないと思うよ」
「うん、わかってる。モテないだけだよ」
「モテようとしてる?あんた、顔はそんなに悪くないんだから」
「ねえ、何で若菜は俺のこと好きだったのかな。あの頃はモテようなんてこれっぽっちも思ってなかったけど」
「魔法」ゆみ姉はさらりと言った。
「魔法?」
「そう、魔法。風邪でも引いて錯覚してたのよ」
「錯覚?じゃあ若菜は俺のこと好きじゃなかったの?」
「バカね、好きだったの」
 パソコンをカチカチと鳴らしていたスーツ姿の男性が「世の中全部魔法なんだと割り切れたらいいですね」と言った。「会社も上司も同僚も取引先も全部魔法。そんなものは存在しない」
僕はその男性から視線をゆみ姉に戻し「若菜は存在したよね?」と確認した。
「あたりまえじゃない」
 チーズケーキを食べ終えて、アイスコーヒーをもう一杯頼んだ。喫茶店に来る前に、墓前で若菜に話しこんだせいか、無性に喉が渇いていた。ゆみ姉は二杯目のアイスコーヒーを作り始めた。
「飛鳥は元気にしてる?東京に行ったんだよね?外国語大学だっけ?」と僕は話題を変えた。
「元気すぎるくらい。ベトナム語を学んでるんだって」
「ベトナム語?なんでまた」
外国語大学に進学したとは聞いていたけど、ベトナム語を学んでいるとは知らなかった。
「なんか、アルファベットじゃない言語を学びたかったみたい」
「ベトナム語ってアルファベットじゃないの?」空になったチーズケーキの皿を見つめながら訊いた。
「私もよく知らない。飛鳥がそう言うんだからそうじゃないの」
二杯目のアイスコーヒーを僕に渡すと、ゆみ姉は「そうだ」、と何かを思い出した様子で、店の裏に行った。がさごそと引き出しを開けて中を探っている音が聞こえた。僕はコーヒーを一口飲み、それからアルファベットではない言語について考えてみた。韓国のハングル、中国の漢字、アラビア文字、名前は分からないがタイもロシアもそうだ。どうしてベトナム語だったのだろうか。と思っているとゆみ姉が戻ってきた。そして僕に紙きれを手渡した。それは一枚の短冊だった。
「この前ね、ここに中学生の男の子がこれを持ってやって来たの。誰かと思ったら、あの事故の時の男の子だった。びっくりしたな。あの時、若菜が落としたこの短冊を咄嗟に拾って今まで持ってたんだって。何でかは分からないけど拾って、何でかは分からないけど持ってて、持ってることも忘れていた。それが突然見つかって、これは返さないといけないと思ったみたいなの」
 僕は状況がよくつかめなかった。ゆみ姉が言っていることは分かるのだが、内容が頭に入って来ない。
「これはなおちゃんに渡した方がいいかと思って。何でこんなこと書いてるのか、ぜんぜんわからないんだけど」
 短冊に書かれている文字を見ると、『自殺論』が本屋大賞を獲りますようにと書かれていた。字は薄く、消えかかっていたが、確かにそう書かれている。自殺論?
「私も絶句したよ。あの子のいたずらかとも思ったけど、そんなことするはずないし。それに、それ間違いなく若菜の字だよね?」
 僕は頷いた。
「まさかとは思うけど…」
「それはないから大丈夫」ゆみ姉が考えているであろうことを察して言った。
「『自殺論』っていう本は自殺の指南書ではないから」
「なおちゃん知ってるの?」
「うん、大学の授業で扱ったから。でも大学の授業で扱うくらいだから、少なくとも中学生の女の子が読むような本じゃないよ。ゆみ姉は心当たりないの?」
ゆみ姉はうんと言って頷いた。「なおちゃんこそ何も心当たりはないの?」
「全くないよ」
 僕はもう一度短冊を見た。間違いなく若菜の字だ。
「とにかくそれはなおちゃんが持ってて」
ゆみ姉から封筒をもらいその中に短冊を入れて鞄にしまった。ゆみ姉は空いた皿を下げた。
「ところでその男の子は元気そうだった?」と僕は訊いた。
「うん。立派に成長してた」皿を洗いながら顔だけ僕の方に向けて答えた。
「それはよかった」
沈黙があった。ゆみ姉は前掛けのエプロンで濡れた手を拭いていた。
「今日は実家に泊っていくんでしょ?」とゆみ姉が訊いた。
「いいや、そのまま帰るよ」
「ゆっくりしていけばいいのに」
「明日、朝から開脚教室があってね。今日の内に戻って体を休ませたいから」グラスの中のコーヒーを眺めながら言った。
「開脚教室?」とゆみ姉は訊き返した。
「スティービーが開脚教室に行った後で姿を消してね…」
「スティービー?」
 ゆみ姉の頭の上に?マークが無数に舞っているのが見えた。
「何から聞いたらいいんだろう」とゆみ姉は困惑していた。
 当然の疑問だと思う。僕だって知り合いに「明日開脚教室に行くんだ」と言われたら「どうして?」と思うし、さらにスティービーなる名が登場したら思考が停止してしまう。
「スティービーは友達」
「ワンダー?」
「まさか」
「日本人。日本生まれ日本育ち、たぶん」と僕は言った。
「たぶん?」
「そんなこと確認したことないからね。フットサルを一緒にやってた友達。俺はもう辞めたんだけど」
「辞めたの?聞いてないけど」
「言ってないからね」
「まぁそうね。どうしてやめたの?」
「うん、サークルから部活に変わることになってね。どうもついて行けなくて」
ふーんとゆみ姉は言った。「で、そのスティービーって子がいなくなったの?」
 僕は頷いた。
「開脚教室に行ってから?」
 僕は頷いた。
「それでどうしていなくなったのか、そのヒントを探しになおちゃんも行くってこと?」
「そういうこと。あんまり気が乗らないんだけどね」僕はグラスの中の氷を指でつついた。
「開脚に?それとも友達探しに?」
「まずは開脚に。それよりもっとしたいことがあるし」
「なに?したいことって」
「昨日における日の割合について考えること」
「キノーニオケルヒノワリアイ」とゆみ姉は初めて聞く言葉を事務的に繰り返すように反復した。
「き・の・う・に・お・け・る・ひ・の・わ・り・あ・い」
「き・の・う・に・お・け・る・ひ・の・わ・り・あ・い」
 園児と先生の「せんせいさようなら」のやりとりのようだった。
「さくじつの昨日に日付の日。の割合」
「なにそれ?」
「この前何気なしに紙に昨日っていう漢字を書いたら、昨日って日っていう漢字が二つあるって思った。この二つの日はどんな大きさでどんな間隔を持ってどう配置するのが見た目的には良いんだろうって気になってね」
「それを考えることに時間を使いたいと?」
「そんな感じ」
「ねえ、私は大学に行ってないから分かんないんだけど、大学生ってそんなに暇なの?」
「暇こそ大学生の特権だからね」
ふーんとゆみ姉は言った。
「で、友達探しの方は?」
「全く連絡がとれないからどうしたものか。事の事態がよくわかんなくて」
「全く連絡がとれないのなら重大事でしょ」
「そうだよね。でも、誰とも連絡をとりたくないことってあるやろ?」
「まあ時にはね」
「だから、それだけならいいんだけど」
「それだけじゃない感じなのね?」
「どうだろう」
「でもちょうどよかったんじゃない。ちょうどいいって言うと不謹慎だけど、なおちゃん体硬いからさ」
「まあね」僕は何を考えるともなく考え込んでいた。
「あの、私も体が硬いんです。教室に行ってみて良さそうだったら今度紹介して下さい」とスーツ姿の男性が僕に言った。僕は返事をせずに男性を見た。誰なのだろうか。ゆみ姉もその人のことを知らないようだった。
「お仕事ですか?」とゆみ姉がその男性に尋ねた。
「ええ。トンネル建設の仕事に携わっています。今はその計画を立てているところです」
「トンネル?」と僕とゆみ姉は口をそろえて訊き返した。
「ある場所とある場所を繋ぐ架橋としての役割を担うのがトンネルです。道なき場所に道を作る。関門トンネルのようになくてはならないものです。しかし、私たちが計画しているのは生まれ変わりのトンネルです。全国各地で老朽化が進んでいますが、老朽化に対する策は生まれ変わりしかありません。あまり大きな声では言えないのですが…」
 大きな声では言えないという言葉とは裏腹に、深く掘り下げてほしいと望んでいるような言い方だった。
「秘密裏の計画ということですか?」と僕は訊いてみた。
「ええ。あまり大きな声では言えないのですが」
 秘密裏のトンネル建設計画とは一体どんなものだろうと思ったが、これ以上質問をする気にはなれなかった。僕はアイスコーヒーを飲み干してお手洗いに立った。
 勘定を払うために財布を取り出すと、お金はいらないとゆみ姉が制した。悪いから一杯分だけでも払うと言ったが受け取らなかった。
「体には気をつけてね」
「ゆみ姉もね。ありがとう。また来るよ」
「そのスティービーって子に会えたらよろしく言っておいてね。なおちゃんの数少ない友達の一人なんだろうから」
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