第34話

文字数 3,435文字

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 雨だった。朝から僕は窓の外ばかり見ていた。どこからともなく雨雲が姿を現し、8時には空を覆った。次第にぽつぽつと雨は降り始め、10時過ぎには本降りになった。僕は傘をさして家を出た。
 小倉駅に着いた時には、ズボンと靴はびしょ濡れだった。世の中には僕みたいに傘をさすのが下手な人がいる。
 栞さんは傘を持っていなかった。駅まで母親に送ってもらい、竹内母はそのまま仕事に向かったという。鈴ちゃんは体育祭の予行練習だそうだ。この雨ではさすがに中止になっているだろう。
 僕たちは二人とも特にお腹が空いていたわけではなかったから、スターバックスに入ってコーヒーを飲むだけにした。二人ともスターバックスラテのショートを頼んだ。僕がアイスで栞さんがホットだった。
 店内の二人掛けのテーブルに向かい合って座った。お互い言葉を交わさないまま、コーヒーを何口か飲んだ。アイスコーヒーだったからだろう、僕の方が多く飲んだと思う。
「ひどい雨だね」と栞さんが言った。
「ごめん、自分のせいなんだ」と僕は答えた。
不思議そうに僕を見つめる栞さんに、飛鳥とのやりとりを説明した。
「飛鳥ちゃんがそんな風に言ったから本当に雨になったのかな。それとも、小川さんが飛鳥ちゃんに電話をかけた時点で雨に決まったのかな」と栞さんは言った。
どっちなんだろうと僕は思った。
「どっちだと思う?」と僕は訊いた。栞さんは考え込んだ。
 でも不思議なものだと思った。外はひどい雨だ。ここから雨は見えないし、音も聞こえない、それでも外では雨が降っていると分かるのはどうしてだろうか。雨特有の匂いが、駅構内はおろか、この店内まで漂っているからだろうか。雨の匂いは嫌いではない。かと言って好きでもない。
「わかんないな」と栞さんは言った。「飛鳥ちゃんは言霊が強そうだし、小川さんも天気を操れそうだから」
「そんな風に言われたのは初めてかも。だとしたら晴れにしてたよ」
「じゃあ、やっぱり飛鳥ちゃんの言霊かな」と言って栞さんは笑った。「そういうことにしとこう」と僕も笑った。
「東京に戻る前に会えてよかった」と僕は言った。
「昨日は本当にごめんなさい」
「ううん、栞さんが謝ることじゃない。ほんとに気にしなくていいから。謝らないといけないのは僕の方だよ」
「私に若菜さんを重ね合わせてたってこと?それこそ小川さんが謝ることじゃない。仕方ないよ。似てるんだもの」
僕の胸の中で何かが疼いた。上手く言い表せないけど、大切な何かが動いた。「どうしたの?」と栞さんが聞いた。
「今の言い方、若菜そっくりだった。若菜がしゃべってると思った。それで…ごめん、また」
「だから、謝らないで。私と若菜さんは関係ないって言われた時ちょっとショックだったんだ。当たり前だけど、私と若菜さんは別人だし、会ったこともない。だけど、飛鳥ちゃんと出会って、小川さんとも知り合った。こうしてお見送りにまで来てくれている。そこには何かしらの縁があって、やっぱり関係ないことはないんじゃないかな」
栞さんはカップを手に取りコーヒーを飲んだ。
「たしかに何かの縁としか言いようがない。でも僕は、若菜に言えなかったさよならを栞さんに言おうとしているわけじゃない。東京に戻る栞さんに対してさよならを言いたかった」
「ありがとう」と栞さんは言った。そしてまた一口コーヒーを飲んだ。店内には多くの客がいたが、スーツケースを抱えているのは栞さんだけだった。
「実はね」と栞さんは言った。僕は彼女を見た。
「昔付き合ってた人が小川さんに似てるの」
僕は何も言わず、続きを待った。
「容姿や性格が似てるわけじゃない。雰囲気が近いというのでもない。どういう風に言ったらいいか分からないんだけど…」
「とにかく似てる?」と僕は訊いた。
「そう。音読みと訓読みみたいな感じ」
「音読みと訓読み?」
「同じ一つの物の別の性質みたいな」
「だとしたら容姿は似てる。というか同じ」
「それは違うの。音読みと訓読み自身は、それぞれが一つの漢字の読み方であることも、お互いの存在も知らないから」
「じゃあ僕とその人には同じ母体があるってこと?」
「どうかな。音読みと訓読みみたいなものだけど、音読みと訓読みではないから。あくまで比喩」
「まあそうだね」
「気を悪くした?」と栞さんは訊いた。僕は首を横に振った。それから、テーブルの上のアイスコーヒーのカップに手を伸ばした。
「その人もね、サッカーをやってたの」
僕はカップをつかんだまま頷いた。
「高校の同級生で、彼はサッカー部に入ってた。エースってわけじゃないけど、レギュラーで、チームも県大会には常に出るくらい強かった。最後の大会では、ほら、冬の選手権あるでしょ、あれで県の決勝まで進んだの。残念ながら負けちゃったんだけど」
僕は黙って聞いていた。
「放課後、教室のベランダから練習してるのを見てた。友達と見てることもあったし一人で見てることもあった。でも見てるって気付かれたくないから、あくまで友達とおしゃべりしてますっていう体で。最初はホントにそうだったの。ただ友達とベランダに出ておしゃべりをしてただけ。何話してたかは言えない」
「聞かない」と僕は言った。
「同じクラスになったことはなくて、たまに廊下ですれ違うくらいで、二年生までは名前も知らなかった。三年生の秋になって、仲が良かった友達も部活を引退して時間ができてたから、放課後なんとなく教室に残ってなんとなくベランダで話をするようになった。これまたなんとなく部活をしている人を眺めてた。サッカー部は選手権に勝ち残っていたから三年生もまだ引退してなくて、その人も練習してた。で、ある時、一緒にいた友達に『栞、あの人のこと見てたでしょ』って言われて、それでその人のことを見てる自分に気付いたの。こういうのって誰かに指摘されて気づくんだよね。『好きなの?』って聞かれて、好きなのかなって。それからはもう、その人を見るためにベランダに出てた」
「おしゃべりの体で」と僕は言った。
「そう」と言って栞さんは笑った。
「でも気付いてたと思うよ」
「そう思うでしょ。私もさすがに気付かれてると思ってた。気付かれたくないって言っても本当は気付いてほしいし、じゃなきゃ見たりしないし。でも、何か見てる人がいるなくらいにしか思ってなかったらしいの」
まさか、と僕は思った。
「それで連絡先を書いた手紙をその人の下駄箱に入れた」
「そんなことあるんだね」
「そんなことあるんだよ」
僕はコーヒーを飲んだ。氷が解けて味が薄まっていた。
「でもね、連絡は来なかった。一週間たってもさっぱり。嫌われてるのかと思った。そこで彼のことを知ってる友達にそれとなく訊いてもらったら、私手紙に名前を書くの忘れてたの。ただメールアドレスを書いてただけ。そりゃ連絡しないよね。男か女かも分からない。その友達が差出人が私だということを伝えてくれて、ようやく連絡が来た。それからメールのやり取りが始まって、会うようになって、私が告白して付き合うようになった」
「ドラマになりそうな話」と言うと、「実際にあった話」と栞さんは言った。
「それで、その、どういうところが似てる?その人と僕は」
「そうだ、その話だったね。気になる?」
僕は頷いた。気になる。
「さっきも言ったように、二人に同じところがあるってことじゃないの。だから具体的な例も挙げられない。ただ、小川さんに初めて会った時、もう一人の彼に会ったような気がした。それだけ」
僕は何と言っていいのか分からなかった。どこに視線を向けたらいいのかも分からなかった。分からないことがある時、僕の前にはいつも何故かコーヒーがある。僕はコーヒーを見た。コーヒーは何も言ってくれなかった。
「私が若菜さんに似てることで小川さんは動揺してたけど、私は私で実は平静ではなかったの」そう言って栞さんは微笑んだ。そしてコーヒーを飲んだ。
「こんな話するつもりなかったんだけどね。どうしてだろうな。あーなんかお腹空いてきちゃった」
 僕は時計を見た。何時かと栞さんが聞いた。12時40分だった。そう告げた。
「そろそろ?」と僕は訊いた。
「そうだね」と栞さんは言った。
僕たちは席を立った。僕は空になったカップを捨てた。栞さんのコーヒーはまだ中身が残っていた。
店を出る時、「まだ雨降ってるかな」と栞さんが言った。店に入ってきた二人組の女性は傘を持っていなかった。
雨はまだ降っていた。改札の手前で僕は栞さんを見送った。
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