第41話

文字数 5,303文字

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 小銭入れから260円を取り出し、ランニングシューズを履いて家を出た。260円と家の鍵をハンカチにくるんでポケットに突っ込み、僕は走り始めた。小銭と鍵がこすれてカチャカチャと音が鳴る。立ち止ってハンカチを取り出すと小銭と鍵は見事にポケットの中に残った。もう一度ハンカチにくるんでポケットに突っ込む。今度はポケットの上から手でハンカチを押さえながら走った。
 スティービーからの返信はなかった。でも彼は来る。僕にはそれが分かっていた。根拠なんて何もない。スティービーだから、としか言いようがない。
 約束の時間、公園にスティービーの姿はなかった。事務所のある本館の入口に座って10分待った。スティービーは来ない。僕は一人で園内を五周走った。それから東屋に向かって、ベンチに腰を下ろした。
「スティービー、出て来いよ」と僕は言った。
「いるんだろ」 
「早く出て来いよ」
「何やってんだよ」
僕は大声で怒鳴った。こんな大声で怒鳴ったのは人生で初めてだった。自分が自分じゃないみたいだった。周囲にいた人たちが一斉に僕を見た。そして僕から遠く離れていった。変な奴がいると思っているのだろう。でもそんなことはどうだって良かった。
「わかった。じゃあそのまま聞いてくれ。
「スティービー、俺は分からなかったんだ。俺を講座に誘うまではいいとしても、どうして一人で行かせたのか。講座があった日の夜に僕の前に現れて家庭教師を引き受けろと言ったのか。そして今になってまた僕の前に姿を現したのか。開脚教室があったあの日、家庭教師の話を持ちかけて来たのは竹内さんという人だった。スティービーと会ったのは、竹内栞という人を東京に見送った次の日だった。単なる偶然とは思えない。竹内栞。知ってるだろ。彼女が昔付き合ってた人って言うのはスティービー、お前じゃないのか?二人は昔付き合っていた。
俺を開脚教室に誘ったのはあの教室に竹内さん、つまり栞さんの母親がいたからで、お前が教室に来なかったのはあの教室に竹内さんがいたからだ。どうして俺一人で行かせたのかが分からなかった。でもそう考えると合点がいく。
 スティービーが講座に参加した時、その場に竹内さんがいた。彼女に偶然会ったことで、栞さんのことがスティービーの中で大きく前景化した。彼女が今どうしているのか知りたくなった。おそらく、竹内さんの方はスティービーのことに気付いていなかったのだろう。そもそも知らなかったのかもしれない。家庭教師を頼んだくらいだからな。竹内さんは以前も別の男性に家庭教師を頼んだが断られたと言っていた。スティービーのことだろう。そして竹内さんがスティービーのことを知らないのは好都合だった。できることなら、自分のことは気づかれたくない。竹内さんは講座の常連であり、次回も参加することが分かっていた。そこで俺を講座に参加させた。家庭教師を引き受けさせて、栞さんに近づけるために。
 あの日、あの会場のロビーで、俺は自販機から人の視線を感じた。それがスティービーだったんじゃないかと思ってる。俺がそこに来ることを確かめたかった。馬鹿げたことを言ってるのは重々承知している。でもそう思えてならないんだ。
 あとはもう家庭教師を引き受けさせるだけだ。そのために」
「考えすぎだよ、奈緒」とスティービーの声がした。圧倒的な老化を遂げたスティービーが東屋に入ってきて、僕の向かいに座った。
「奈緒はいつだって考えすぎてるんだ。それもどうしてそんなことを考えているのかよく分からないようなことをね」
「それはスティービー、お前だって一緒だよ」
「奈緒、君の言う通りだよ。僕は竹内栞を知っている。僕は彼女と付き合っていた。でも違うんだよ、奈緒。僕は彼女に会いたいと思ったわけではないし、君を彼女に近づけたかったわけでもない。逆だよ」
「逆?」
「僕が開脚教室に参加した日、僕は彼女の母親に、その人が彼女の母親だってことはすぐに分かったよ、君の言う通り向こうは僕には気づいていないようだったけど、娘の家庭教師をしてほしいと頼まれた。断ったよ。それを引き受けてしまえば遅かれ早かれ僕は彼女に会うことになると思ったからね。僕は彼女に会うことが怖かったんだ」
「怖かった?」
「彼女と付き合っていたけど、彼女に恋をしてはいなかった。僕は適当な言葉を並べたてて別れを告げた。そのことをずっと後悔していた。謝らなければいけないと思っていた。でも、思うばっかりで実際に会いたいとは思わなかった。実際に会ってもどう振る舞えばいいのかが分からない。何を言えばいい。僕はきっと黙りこむだけだ。会う勇気なんかこれっぽっちもなくて、ただただ怖かった。それで僕は思い当たるいい人がいる、次回の講座の時に連れて来て紹介すると伝えた」
僕はスティービーを見ていた。
「悪かったよ、奈緒。彼女に会う勇気はなかった。でも彼女が今どうしているのかは知りたかった。僕には奈緒しかいなかった。だからあの日、僕は奈緒の前に現れて、奈緒が家庭教師を引き受けるかどうか確認したかったんだ。そもそも奈緒がその仕事を依頼されているのかどうかも分からないままに僕は奈緒に近づいた。そうしたら案の定、奈緒は依頼を受けていたが、引き受けようとはしていなかった。それであんなことを口にしたんだ。だからね、あの日僕は会場には行っていない。来るだろうと思って公園で奈緒を待っていた。会場に僕がいたというのは思い違いだ」
僕はため息をついた。
「彼女は僕のことを好きでいてくれた。でも僕はそうじゃなかった。僕は彼女の恋をする気持ちを踏みにじったんだ」
「栞さんの話を持ち出したのは俺の方だ。でもその話はもうやめよう」
「僕は嘘をついて彼女を傷つけたんだ。僕は今でも」
「スティービー」と言って僕はスティービーの話を遮った。「スティービー、もういい。それ以上は言わなくていい」
スティービーはうなだれるように下を向いた。栞さんとスティービーの関係がどうでもよかったのではない。スティービーの話を聴きたくなかったのでもない。ただ、スティービーはこの話をすべきではないと僕には思えた。それ以上話をすると、スティービーはスティービーではなくなってしまう。壊れてしまう。本当に恋ができなくなってしまう。もう「資格」じゃ歯止めがきかなくなる。
「走ろう」と僕はスティービーに言った。

 僕たちは二人並んで走り始めた。二人で並んで走るのはいつぶりだろうか。スティービーと一緒に走ることができて僕は嬉しかった。
「久しぶりに一緒に走る」と僕が言うと、スティービーは「ああ」と言った。
「いつぶりだろうか」
「いつぶりだろう」
ゆっくりとしたペースで公園を一周した。二人とも何も言わずにそのままニ週目に入った。三周目に入った時、スティービーは速度を落とした。
「時間を巻き戻したいと何度考えたか分からない。あの時に戻って、彼女に対して嘘をつかずに正直になる。何度も何度も考えた。でもこれだって、僕自身が後悔しないための行動であって彼女を傷つけることには変わりがない。それで僕は彼女に会う前に戻りたいと思うようになった。出会わなければよかったんだと」
そこでスティービーは言葉を切った。そして続けた。
「僕は自分の罪を僕ではない何かに押し付けようとした。その何かをずっと探していた。その何かが本当の自分なのかもしれない。奈緒が言った通りさ、『あれは自分じゃなかったんだ』ってね。本当にそんな風に考えたんだ。僕自身のこと、僕に関わる全てのことを否定した。ひとつひとつの振る舞いを見つめていく中で、あの時のあのことは自分がやったことじゃない、あるいは、そうするだけの、そうしてしかるべき理由があったんだという考えになった。もう時を戻したいとも思わなくなっていた。正当化しているのは僕の方だ。でもね、あの時の自分は本当の自分じゃなかったといくら考えてもやっぱり僕なんだよ。これもまた奈緒の言った通りさ。僕は嘘をついたし彼女を傷つけた。それが僕なんだよ。そして僕は僕であることに耐えられなくなった。正当化を剥ぎ取った先に僕が見たのは何もない僕だった。奈緒、知ってるか?人は何もないことに耐えられない」
「ああ、人は無意味に耐えられない。だから意味を見いだそうとする」
 スティービーは立ち止った。僕も一歩遅れて立ち止った。
「僕は無意味だった。この姿がそれを物語っている」と一歩後ろからスティービーは言った。
「どうしてそうなったのか、何が起こっているのか、分からない、説明ができないって言ってたじゃないか。これから考えるしかない」
「それは奈緒の仕事だ」とスティービーは言った。「そのことを伝えるために今日僕は奈緒に会いに来た」
僕は前を向いたままでいた。
「奈緒、もう一度言うよ。僕は僕であることに耐えられなかった」
「何が言いたいんだ?」
「僕はもう死んでいる」
「冗談はやめてくれ」
「冗談じゃない。冗談が苦手なのは奈緒が一番よく分かってる」
胸が詰まって涙がこぼれそうだった。スティービーは冗談を言っているのだ。どうして涙が出そうになる。
「奈緒、こっちを見て」とスティービーは言った。振り向けなかった。どうして振り向くことができない。
「奈緒」
スティービーが呼んでいる。振り向かなければいけない。何をためらっている。
僕は振り返った。そこには僕の知っているスティービーがいた。
「久しぶりだね」とスティービーは言った。
僕は泣いた。
「泣かないでくれ。僕まで泣いてしまう」
「死人も涙を流すのか?」
「そうみたいだ」と言ってスティービーは微笑んだ。
「意味は分からなくていい。ただ信じてくれたらいい」
「信じる?死んでるって信じろって言うのか?できるわけないだろ」
「でも信じなくちゃいけない。僕が奈緒に望むのはそれだけだ」
胸が張り裂けそうだった。どうして?冗談と分かっているなら泣く必要なんてないじゃないか。
僕はまたスティービーに背を向けて前を向いた。「走ろう。いいから走ろう」と言った。
「奈緒」とスティービーが呼んだ。「走るぞ」と言って僕は走り始めたが、スティービーは走ろうとしなかった。僕はまた立ち止った。
「一緒に走れて楽しかったよ」とスティービーは言った。「僕を見て泣いてくれるなんて思いもしなかった。それだけで僕は十分だ」
僕は言葉を返すことができなかった。
「もう行くよ」
「なあスティービー、信じなくちゃいけないのか?」
「信じなくちゃいけない」
「スティービー」と僕は呼んだ。返事はなかった。振り向いてもう一度呼びたかった。でもできなかった。もうそこにスティービーがいないということが僕には分かっていた。
「どうしてみんな僕の前からいなくなるんだろう」
 僕の言葉はただ空中に消えていった。

 僕は芝生広場のベンチに座った。正面にはプールがあり、その鉄柵の扉の手前に一台の自転車が止まっている。そこに小学生の男の子がやって来て自転車を止め、カゴからサッカーボールをとってグラウンドの方に走って行った。数分後に少年がもう一人やって来て、同じくサッカーボールを持ってグラウンドの方に向かった。自転車は三台になった。ママチャリが一台に子供用のマウンテンバイクが二台。犬の散歩をしていたおじいちゃんが犬をカゴに乗せて走り去って行った。自転車は二台になった。鉄柵の向こうには水の張っていないプールと誰もいないプールサイドが見える。何かの感染症で封鎖された街のようだった。
 鉄柵の扉の横に自動販売機が三台並んで置かれている。親子がその前を通りかかった。子供がアイスを食べたいと言った。母親がダメだと言った。なんで?今日はもう食べたでしょ。その後に高校生の男の子がアイスを買っていった。そうか、もう11月なのだ。自販機でアイスを買って食べたくもなる。
 道着を着て裸足にサンダルを履いた女の子と男の子が館内に入って行った。兄妹だろう。荷物を置いて館内から出てきた二人はサンダルのまま芝生広場の周りを走り始めた。僕の前を二度通過した。走り終えるとまた館内に戻って行った。
 暗くなり始めていた。僕は立ち上がって自動販売機に向かった。自動販売機の前に立った時、僕は自販機を思いっきり本気で蹴飛ばしたくなった。持てる限りの力を込めて蹴りたかった。蹴ったことを後悔する日は来ないだろうと思った。でも僕は蹴らなかった。そんなことするべきではないのだ。僕は思いっきり叫んだ。
 コーラを二本買って東屋まで歩いた。ベンチに座ってその一つを開けて飲んだ。コーラはいつものコーラだった。もう一つを手に取って眺めた。僕はこれをどうしたらいい。飲めばいいのか。握りつぶせばいいのか。地面に叩きつければいいのか。乾杯だけができなかった。
 時計を見た。ストップウォッチが動き続けていた。ストップウォッチを停止して画面を時刻に戻した。僕は芝生広場に戻った。二台の自転車はまだそこに止まっていた。一台の自転車のカゴにコーラを入れた。ごめん、一つは飲んでしまったから一本しかないけど、仲よく二人で飲んでくれ。僕は公園を出た。
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