第3話

文字数 2,322文字


 若菜が亡くなったのは、五年前、中学三年生の七月七日・七夕の日だった。長女の有美子、次女の若菜、三女の飛鳥、佐々木家三姉妹と僕は幼馴染で小さな頃からよく一緒に遊んでいた。学年が上がるにつれて四人で遊ぶことは無くなっていったが、僕と若菜は同級生で多くの時間を共に過ごした。僕は若菜が好きだった。若菜も僕のことが好きだった。僕たちは付き合っていたわけではないが、付き合うという形式はどうでもよかった。僕たちの関係は周知で、それを冷やかす者もいなかった。まるで漫画の世界の中にいるみたいだった。
小さい頃から毎年七月七日は近所の神社で催される夏祭りに遊びに行っていた。中学三年生のその日も二人で祭りに行く約束をしていた。しかし若菜は待ち合わせ場所に姿を見せなかった。
 交通事故だった。目撃者の証言によると、小学校一年生の男の子と女の子が二人並んで仲良く歩いていた。風が女の子の黄色帽を吹き飛ばし、風に飛ばされた黄色帽を追いかけて男の子が道路に飛び出した。飛び出した男の子を避けようと急ハンドルを切った自動車が歩道に進路を変えて突っ込んでいく。立ちすくんで動くことができない女の子を守ったのが若菜だった。
 僕が病院に駆け込んだ時若菜は既に息を引き取っていた。男の子と女の子は何が起こったのかわからない様子で呆然と立ち尽くしていた。女の子の母親は佐々木家にひたすら謝罪の言葉を繰り返していた。男の子の母親は当人の不注意を叱咤した。呆然と立ち尽くしていた男の子はわっと大声をあげて泣き出した。その父親は、子どもには非がないとわかっていながらも、子を叱る母と泣きわめく子をただ黙って見つめていた。そうするよりほかにどうしようもないような様子だった。
 誰が悪いわけでもない。正義感の強い若菜が死んで一人の女の子の命が生き残った。僕は男の子と女の子を責めたり恨んだりする気持ちはなかったが、それでも若菜の死を受け止めることができなかった。一人の命を守ったのだと簡単に割り切ることもできなかった。それは今でも変わらない。若菜は死んだのだ。
 それから僕はあらゆるものごとに対して無気力になっていった。部活動のサッカーは引退まで何とか続けたが、一切身が入らず、プレイしていないも同然だった。引退後は全く運動をしなくなった。勉強にも精が出ずに無難に手の届く高校に進学した。進学後も部活動には入らず、友達も作らずにただ家と学校を往復する生活を送っていた。
 転機は高校一年生の冬、体育の授業のマラソンだった。自分の体力のなさに愕然とした。たった一キロをぜえぜえはあはあ息を切らせながらようやく走り切る体力しか僕にはなかったのだ。部活をやっていた時はペースさえ気にしなければいつまででも走っていられるほどだったのに、たった1キロすら走ることができない。ショックだった。知らない間にこれほどまでに僕は弱っている。情けない。この事実に直面し、顔を背けることはできないと思った。いつまでもこんな無気力な生活を送っていてはいけない。こんな僕を見たら若菜はどう思うだろうか。一つのボールを二つのチームが奪い合う意味が分からないと口癖のように言っていた若菜は僕のサッカーの試合を観に来ることはなかったけれど、走っている僕を見るのは好きだと言ってくれていた。僕が公園に自主練習をしに行く時、絵を描くのが好きだった若菜は時々画材を抱えてついて来て、僕が走っている間に絵を描いた。僕は絵を描いている若菜を走りながら横目で見るのが好きだった。僕が若菜を横目で見るたびに「こら、ちゃんと走れ」と若菜は僕を怒った。そんなひと時が僕は本当に好きだった。そのことを思い出して僕は泣いた。どうしてそのことをこんなにも簡単に反故にしていたのだろうか。これでは若菜に会わせる顔がないではないか。ごめん、若菜。
 それから僕は毎週末公園をランニングするようになった。初めは息を切らせる苦行でしかなかったが、誰かに強制されて走るわけではなかったから決してつらくはなかった。徐々に体力が付いてきて次第に無気力状態も改善した。人と話すことも増えた。おろそかにしていた勉強にもそれなりに身が入るようになった。努力の甲斐もあって、授業料免除で大学に入学することができた。
 走り始めて体力がついてくると僕は自分の身体に気を使うようになり、筋力トレーニングとストレッチもするようになった。走るために筋肉をつけ、柔らかくするためにストレッチをする。筋力がついてくると体が大きくなった。胸・肩・太腿と、大きな筋肉が肥大して、シャツのボタンがとめられなくなり、ベルトの穴も二つ分ずれた。手持ちの服で着られる物が少なくなった。そのことに喜びを覚えたのだが、困ったことに、今度は身体が重くて走ることが難しくなった。重くて重くて走れない。終いには、太腿が走っているのではないかと思えるほどにぎこちない走りになった。   
そんな時期に村上春樹とカントに出会った。そして僕は筋力トレーニングとストレッチを止めた。『純粋理性批判』にそういうことはしてはいけないと書いてあったからだ。そういうことは書いてないとカントは言うかもしれないけれど。身体の変化に喜びを覚えていたのだけれども、筋力トレーニングとストレッチを止めることには不思議と抵抗はなかった。なにせ、身体が重くて重くて仕方がなく、太腿が走っていたのだから。
それもあって、僕はどうも開脚教室に足を運ぶ気になれない。ストレッチはもう御免なのだ。でも、スティービーを無視することはできない。ゆみ姉に見抜かれたように、彼は僕の数少ない友人の一人なのだ。いや、「唯一の」と言ってもいいかもしれない。
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