第20話

文字数 1,959文字

20
 家庭教師の必要がない程鈴ちゃんは頭が良かった。学校の勉強においても日常での機転においても頭が切れる。僕は本当に話し相手をしているのと変わりがなかった。むしろそんなことも分からないのかと鈴ちゃんから教えられることの方が多い。それでも鈴ちゃんが楽しんでくれているようなので僕としてもあまり気負うことなく楽しくできている。僕が彼女に勝っているのは、五賢帝の名前をすらすらと言えることくらいだった。彼女はカタカナが苦手らしい。
 夏休みということもあり、週に三回受け持つことになった。うち一回は鈴ちゃんの希望で、僕の通う大学館内で行うことにした。僕に気を使ったのか、制服は着て来なかった。
 鈴ちゃんが数学の問題を解いている時、僕は手元の紙に漢字で「昨日」と書いた。無意識だった。昨日における日の割合について考えるのはいつ振りだろうか。
単独の「日」の字が小さかった。うーんと思った。うーんと声に出していた。鈴ちゃんが数学を解く手を止めて僕を見た。それから昨日と書かれた紙を覗き込んだ。僕の顔の真下に鈴ちゃんの頭が潜り込んできて僕はドキッとした。髪から仄かな甘い香りがした。
「なにそれ?」とその距離感のまま顔を僕に向けて訊いた。
「き、昨日における日の割合」と『ノルウェイの森』に出てくる突撃隊君のようなしゃべり方になった。
 鈴ちゃんは何も言わずに首をひねった。僕が何を言ったのかよく分かっていないようだった。
「昨日って漢字は日が二つあるでしょ?それがどういうバランスで配置されるのがいいのかなって考えてた」
 鈴ちゃんは首をひっこめて元の席に落ち着いた。
「それって大学の課題かなにか?ゲシュタルト崩壊に関する研究とか」
「よくそんな言葉知ってるね」
「あのね先生、今の高校生は入学と同時に心理学の教科書も買わないといけないの」
「もうだまされないよ」
 二人で笑った。
「ううん、これは大学の授業は関係なくて個人的な問題意識」
「変な人」と鈴ちゃんは言った。
「先生そんなんでよく大学に入れたね」
「ほんとに」
「先生の学力で大学に入れるんだったら私東大にいけるかも」
「いけるんじゃない」
「そんな適当に言わないでよ」
 しばしの沈黙の後、辺りを見回してから「大学っていいところだね」と鈴ちゃんはぼそっとつぶやいた。
「うん、いいところだと思う」と僕は答えた。自分に向けて言っているみたいだった。
「いろんな面白い人がいる。野良猫にエサをあげてる教授がいたり、野良猫にエサをあげないでほしいって言ってる教授がいたり、スティーブン・ジェラードが前を向かなくなった理由を知りたいからとフットサルをするやつがいたり、とにかくいろんな人がいる」
「昨日における日の割合について考えてる変な人もいる」
 いいから問題を解きなさいと僕は鈴ちゃんに言った。
「あんまりそうやって男をからかうもんじゃない」
「何で?」
「好きになるから」
 鈴ちゃんの顔が赤くなった。僕も自分で言っておきながら恥ずかしくなった。
 なにか飲み物を買ってきてと鈴ちゃんは言った。苦いやつ。僕は微糖の缶コーヒーを二つ買ってきた。
「わ、わたしはいいんだけど」と今度は鈴ちゃんが突撃隊になった。
「私はいいんだけど、お姉ちゃんにはそんなこと言わないでよ」
 そういえば、鈴ちゃんには姉がいるんだった。東京の大学に行ってるとか。竹内宅でもまだ会ったことがない。
「そういう冗談が通じない人だから」
「別に冗談じゃないけど」
 僕がそう言うと、鈴ちゃんはまた顔を赤らめて消しゴムを僕に向かって投げた。目の少し上に当たった。
「男ってそういうもんだよ。すぐ誰かを好きになる」僕は消しゴムを拾ってからそう言った。
「同じくらいすぐ嫌いにもなる」と鈴ちゃんはすかさず返答した。そこには少なからぬ怒りがこもっていた。
「そういうこともあるかもしれない」
「だから、言わないでよ。お姉ちゃんには」
「言わないと思う。だいたいまだ会ったこともないし」
「姉妹なんだからそのうち会うかもしれないでしょ。あと、思うじゃダメ、思うじゃ」と「あと」をすごく強調して言った。
 鈴ちゃんは缶コーヒーを手にとってぐるっと一周見回した。缶を何度か激しく振ってテーブルの上に置いた。僕ももう一本を手にとってそこに書かれた文字を読んだ。軽く振ってから少し時間をおいてお開け下さいと書かれていた。
「ねえ」と話題を変えるように鈴ちゃんが口を開いた。
「さっきのなんとかジェラードってサッカー選手のことだよね?」
「最近の指導要綱には選手名鑑まで購入するように記載されてるの?」
 冗談のつもりで言ったのだが、鈴ちゃんは腹を立てたようで、言葉を返してくれなかった。昨日という字を上からシャーペンでぐしゃぐしゃに塗りつぶされた。それから舌を出してべーと言った。かわいいと僕は思った
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