第31話

文字数 2,614文字

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 博多駅から地下鉄に乗って、ももちパレスに向かった。4階のロビーに上がるとそこには新しい自動販売機が設置されていた。人の視線は感じない。至って普通の自動販売機だ。
オガワさんの姿はない。施設内をぐるっと一周したがオガワさんに出会うことはなかった。かまわない、オガワさんに会いに来たのではない。4階のロビーに戻った。
目的のゴミ箱は以前と変わらずそこにあった。ゴミ箱を手に抱え、ロビーの受付から見えないようにソファに腰掛けた。僕は周りを見渡して人の目がないことを確認し、深呼吸してからゴミ箱に手を突っ込んだ。何も聞こえない。缶瓶ペットボトルが手にあたるだけだ。不快な感触に堪えながら手をかき混ぜる。何も聞こえない。手を動かすのを止めてじっとそのまま放置してみた。何も聞こえない。手を引き抜いてトイレに行き洗面台で手を洗った。
 あの時の声がアーカイブならそこに収められた他の声を聴くことができるのではないかと予想したのだが、思い違いだったのだろうか。あるいはやはり親機であるオガワさんを介さなければ聴くことができないのだろうか。そもそも他の声などないのだろうか。
 もう一度よく手を洗い、今度は顔も濡らした。洗面台に備え付けられたティッシュで手と顔を拭いて丸めてゴミ箱に捨てた。オガワさんはゴミ箱に手を突っ込む際に何をしていただろうか。今こそ頭をフル回転させる時だ。開脚教室があったあの日、僕がロビーのソファに座っているところに清掃員のおじさんがやってきてゴミ箱に新しいビニールをかけた。それから、ビニールを替えたばかりのゴミ箱に手を突っ込んだ。替えたばかりで何も入っているはずがないのに手を突っ込んで確かめているからおかしいと思ったのだ。もしかしたら…
 僕は近くのコンビニで大きなビニール袋を買って戻ってきた。ゴミの詰まったビニールを取り出して、新しいビニールをかけた。職員に何か言われたらゴミが詰まって捨てられなかったので私的に替えたと言えばいい。非難はされるだろうが罪に問われることはないだろう。
 再び手を突っ込んだ。何も聞こえない。手を色々と動かしてみる。ある箇所で一瞬身体に何かが走った。あの時のあの感覚だ。その箇所を慎重に探った。聞こえた。

あの頃は楽しかったと昔を振り返るのは、愚かなことですか。平凡な日々を送っている今が楽しくないのだから、せめてそれくらいは許して下さい。
そんなことを思いながら、午前9時52分発・18番のバスに乗って大学へ向かっている。この時間にバスを利用するのは、同じく大学に行く学生数名と、乗降扉が開くや否やなりふり構わず乗り込んでくるおばちゃんたちだけだ。席は空いている。なにも並んでいる人を押しのけてまで急ぐ理由はどこにもない。たとえ席が空いていなくても譲ってくれる人はいる。もう少し他人を信用してはどうか。
一番後ろに座っていると、バスの中全体をよく見渡せる。社会では最下層に位置しているのだから、バスの中くらいは数十センチ座高が高くなる最後尾に座らせてほしい。

その声はそこで終わった。ゴミ箱から手を引き抜いた。身体が重い、5キロ走った後のような疲労感だ。ソファの背もたれに背中を預けて5分程休憩し、もう一度手を突っ込んだ。手を動かして声を探す。

僕は今日一編の小説を拾った。ある中学生の女の子が定年退職後も常勤の国語教師として学校に残るおじいちゃん先生と愛について語り合う物語だった。どんなことをしてでも手に入れたいと望む、それが愛だと先生は言った。その結果一人の友人が死ぬことになってもそれが愛なのか、と生徒は問いただした。愛とは必ずしもきれいな形をしていない、と先生は答えた。形なんてどうだっていい、私はそれが何かと聞いているの、と生徒は投げ返した。私はそれについて語る資格を持たない、それが先生の返答だった。僕は先生に票を投じる。僕には恋をする資格がない。僕はある人の恋をする気持ちを踏みにじったのだ。

 僕には恋をする資格がないというフレーズが、この声の持ち主がスティービーであることを僕に強く確信させた。それはいつか彼が僕に言い放った言葉そのものだ。その真意を今推し測ることはできないが、この声が彼を探す手掛かりになることは間違いない。しかし、これ以上声を聴くことは体力的にできそうにない。
オガワさんという親機がいなくても声を聴くことは可能だと分かった。このごみ箱を何とか自分の手元に置いておきたい。金銭的にも時間的にもここに通い続けることは厳しい。持ち帰るしかない。持ち帰るしかないが、施設の備品を勝手に持ち出すわけにはいかない。袋をとりかえるのとはわけが違う。
 僕は総合案内所に向かった。オガワさんのことを教えてくれたあの女性に話をすれば何とかなるかもしれない。
その女性はそこにいて、ペットボトルのラベルに書かれた成分表示を凝視するように、施設のパンフレットを眺めていた。「こんにちは」と僕は声をかけた。女性は僕に視線を移して「こんにちは」と言って、パンフレットを閉じて机の上に置いた。
「あの…」
「オガワさんの件ですか?」
「ええ、その件で」
「オガワさんから話は聞いています。どうぞ、持って行って下さい」
 僕は女性を見つめた。何の事だかさっぱり分からない。
「ゴミ箱のことですよね?」
 どうしてゴミ箱のことだと分かったのだろうか。
「代わりの者が取りに行くから来たら渡してくれと、伝言を預かっています。その方では…」
「そうです。引き取りに来ました」とわけの分からないまま答えた。
 受け付けの電話が鳴り、女性はその対応にあたった。僕は頭を下げてその場を離れた。僕は勝手に代わりの者になったが、おそらくそれは僕のことで間違いない。オガワさんは僕がここにきてゴミ箱を持ち帰ることを見越してその手はずを整えてくれていたのだ。そう考えると合点がいく。その目論見といい、タイミングといい、事の運びの順調さが逆に怖く感じられるが、一まずゴミ箱を持って帰れるようにはなった。
 4階ロビーにもどり、ゴミ箱を大きなビニール袋に入れた。ゴミ箱もビニールに包まれるとは思ってもみなかっただろう。どこかで自動販売機探しに奔走しているであろうオガワさんに思いを馳せ、僕はゴミ箱の入ったビニールを抱えて施設を出た。

 夜、鈴ちゃんからメールが来た。
明日、17時、自宅。
 事務連絡とも感じられない程の無機質なメールだった。
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