第13話

文字数 2,266文字

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 翌朝、僕は自宅で目を覚ました。夜警のおじさんと公園で話をした後、朝までブランコに座ったままでいたような気がするのだけれど、僕は家に帰り、家で眠り、そして家で朝を迎えた。変な感じだ。どんな人と会っても、どんな出来事が生じても、次の日はやってくる。良いとか悪いとかではなく、そういうものなのだ。
 もう腹は立っていなかったが、どこか釈然としない、腑に落ちない感じが残っていた。布団から起き上がり、カーテンと窓を開けた。風は大して入って来なかった。窓の外では学生が通学し、大人たちが通勤していた。犬の散歩をしている人は、いなかった。
 テレビをつけると画面の時刻は7時50分を知らせていた。すらりとした脚のお姉さんが天気予報を伝えている。真夏日・雨の心配はなし。
 台所で水道の水をコップで一杯飲み、食パン一枚にブルーベリージャムを塗って食べた。

 一時間目は認知心理学の授業だった。人は未来についての記憶も持っている。未来に行うべき行為の記憶を展望的記憶と言う。「明日の朝、ゴミを捨ててから仕事に行こう」とか、「今日帰ったら部屋の掃除をしよう」とか。展望的記憶はメタ認知と密接な関わりがある。人間の認知過程に関する知識をメタ認知と言い、よく記憶するにはどうすればよいか、それはどのような効果があるのかといった記憶方略に関する知識をメタ記憶と言う。人は、自らの記憶能力の限界を知っているからこそ、いろいろな工夫をする。と教科書に書いてあった。「飛鳥に電話しよう」という僕の展望的記憶ははるか昔のことのように思えた、と今現在思った。時間性は難しい。一時間目から考えることではない。
 二時間目は英語の授業だった。英語は二年間必修で受けなければならない。内容としては高校の授業の方が圧倒的に難しい。英語を専門に履修しているわけではないから、英語を忘れてしまわないよう、親しむ程度の内容となっている。それでも大学に入学すると同時に高校の全課程を忘れ去ってしまった僕にとっては簡単な内容とは言えない。

 授業を受けながらも、夜警のおじさんとの会話が頭から離れなかった。僕は呼ばれた。呼ばれることを望んでいた。あなた自身をさしだすために呼ばれたのです、とおじさんは言った。何を差し出せというのだろうか。僕は手元の紙に“呼ばれる”“差し出す“と書いてみた。その字を丸で囲った。書いてみても、口に出してみても、何一つ分からなかった。呼ばれる、差し出すと紙に書かれてあるだけだ。
今は授業に集中する時だ、と自分に言い聞かせる。カーペンターズをリスニングして穴埋めしなければいけない。しなければいけないのだが、分かってはいるが、カーペンターズは頭に入って来ない。僕は消しゴムで“呼ばれる”と“差し出す”という字を消した。それから消しゴムを眺めた。四角くて灰色がかった消しゴム。
 朝から続くこの釈然としない感じは何なのだろうか。夜警のおじさんとの会話?それもある。竹内さんから娘の家庭教師を頼まれたこと?それもある。開脚教室に行ったこと?それもある。スティービーがいなくなったこと?そうだ、スティービーがいなくなったんだ。スティービーがいなくなって、僕は開脚教室に行って、竹内さんから娘の家庭教師を頼まれて、夜警のおじさんと会って話をした。そして、呼ばれるとは何か、差し出すとは何かについて考えている。自分は一体何をやっているのだろうか。
 竹内さんは家庭教師代としてニ万出すと言った。ニ万円はさすがに高すぎる。もらえるはずがない。それとも、もらえるものはもらった方がいいのだろうか。いいや、そんなはずがない。一回家庭教師をしただけで二万円をもらうなんて常識的に考えて間違っている。吉田先生が言っていたようなニュートラルな身体になれば、健全で適正な判断が下せるのだろうか。分からない。分からないことが多すぎる。
隣に座っていた唐橋さんが「なんかあった?」と声をかけてきた。
「何か難しい顔してるよ」
 また難しい顔だ。
「ねえ、俺を難しい顔協会の理事にでもしようとしてる?」
「は?」と唐橋さんは顔をしかめた。
「なんでもない」
 なんでもない。僕は何かの協会のトップや中心になりたいわけではない。
「唐橋さん、家庭教師ってやったことある?」
「家庭教師?ないけど、何で?やるの?」
「ある人に頼まれてね。どうしようかと思ってるところ」
「へぇ。やったらいいじゃん。ほら、バイト辞めたって言ってたし。ちょうどいいんじゃない」
「それはそうなんだけど…」
「なんかひっかかることがあるの?」
「相手は高校生の女の子らしいんだけど、もう高校の勉強なんて覚えてないしさ」
「忘れたことは思いだしたらいいんだから、そんなに気にしなくていいんじゃない。でも、女子高生かぁ。色々と難しい時期だからね」
「いろいろと?」
「色々と。恋やら勉強やら人間関係やら。色々と。まぁでも、やってみたらいいんじゃない」
 先生が僕たちの方に視線を送った。僕と唐橋さんは正面に向き直った。
 前を向いた時僕は消しゴムを床に落とした。四角くて灰色がかった消しゴム。前に座っている田中君の背中をつついて床に落ちた消しゴムを指さし「それとって」とお願いした。田中君は消しゴムを拾って僕に手渡してくれた。
「ありがと。ちなみにこれ何?」
「消しゴム」
「そうだよね」
 この一連の会話を聞いていた唐橋さんが隣で怪訝な難しい顔をしていた。この世のものではない存在を見るような目で僕を見た。「協会を立ちあげたら役員の席を用意しておく」と唐橋さんに伝えた。
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