第9話

文字数 1,292文字


午後の部の講座は実際に身体を動かすワークを中心に進められた。吉田先生は自分の右腕をギュッとつかむようにと僕に命じた。僕は先生の右腕を両手で強く握りしめた。
「私の腕に振りほどかれないように力いっぱい握っていてください。私が動かそうとするので動かないように止めて下さい」
そう言われて僕は思いっきり足を踏ん張った。
 次の瞬間吉田の腕はまるで何者にも掴まれていないかのようにするっと動き出し、気がついた時には僕は地面に倒れていた。参加者のみんなは茫然としていた。何が起こったのか一番理解できていないのは僕だった。言われた通りにしっかり腕をつかんでいたのにもかかわらず、腕は「何か御用でも?」と言わんばかりに掴まれていることなどお構いなしに動いた。
「背骨です」と先生は言った。
「身体の中心から末端に向けて力を使います。腕の力なんてたかが知れています。力と力では力が強い方が勝ちます。まして男性と女性では力の差は歴然です。いかに相手にこちらの力を悟らせないか、相手はまさか背骨から力が伝わるなんて考えもしません。背骨には大きな力が宿っています。でも皆さんの背骨は眠ったままになっています。背骨は身体の中心です。上体で言えば背骨は肋骨とつながり肋骨は胸骨とつながり胸骨は鎖骨とつながり鎖骨は肩甲骨と、肩甲骨と鎖骨が上腕骨とつながっています。下肢で言うと背骨は仙骨と、仙骨は骨盤と、骨盤は大腿骨と、というように足までつながっています。背骨が動けば全身が動き始めます。というわけで皆さん背骨を目覚めさせていきましょう。大丈夫です、眠っているだけですから」

 それから二人一組になって背骨を目覚めさせるワークを行った。一人が四つばいの姿勢になりもう一人が上から背骨を一本ずつ触っていく。触られる方は触れられている背骨を正確に感じ取ってここに背骨があるのだという認識を頭と身体に覚え込ませる。次に触れられている背骨を動かす、正確にその箇所をピンポイントに。そのようにしてまずは自分が思っている背骨の位置と実際の背骨とのズレを正していく。何よりもこれがニュートラルな身体を目指す第一歩だという。次に同じく四つばいの姿勢で一方が上から背骨を押すのだが、今度は押されるがままに抵抗しないというワークを行った。押されると押し返すという反応が僕たちには身についている。そうではなくて押されたら押された分だけ背骨がその押しについて行く。これが先ほどの衝突しない力の使い方につながるのだという。
僕はこれらのワークを森川さんと行った。僕は自分の背骨の硬さに愕然とした。一本ずつがバラバラに動かず他の個所も一緒に動いてしまうし、抵抗しないという感覚もつかめなかった。森川さんは驚くほど体が柔らかかった。背中全体を丸めて反らす猫のポーズというワークをした時には本当に猫みたいにグニャっと背中が動いた。しかし吉田先生に言わせれば身体はものすごく柔らかいがそれと背骨の柔軟性はまた別だという。森川さんでさえ背骨は依然眠ったままであるというのだ。先生は僕たちと見ている世界が違うのだ。最後に一人でできるワークを教わり講座は終了した。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み