第40話

文字数 1,293文字

40
「なお、あのパス良かったね」とスティービーが言った。フットサルの練習を終え、モップ掛けをしている時だった。
「うん、あれは自分でもよかったと思う」
「きれいなスルーパスだった。よく見えてたね」
「ここしかないと思って、ここしかないところに出せたからよかったよ」
「僕は決めるだけでよかった。そういうパスってなかなかくるもんじゃない」
二人で並んでモップをかけ、体育館の端まで行ったところで折り返した。二人とも汗でシャツはびしょびしょだった。汗臭かった。でも気にはならなかった。いや、気にはなる、でも気に病むことはなかった。
「ジェラードの方で何か進展は?」と僕は訊いた。
「さっぱり。やっぱりシャビ・アロンソがいなくなったからなのかな」と自信なさげにスティービーは言った。
「そうじゃないと思ってるんだろ」
「たしかに一因ではあると思う。否定はできない。ジェラードが前線で自由に動き回れていたのは彼の後ろにシャビ・アロンソがいてくれたおかげだからね。彼が移籍したことによって、ジェラードは一つポジションを下げる必要が出てきた。でも、それは前を向かなくなったことの説明にはならない。ポジションが下がっても前を向くことはできたはずだから」
僕はその説明に同意した。
「だから、やっぱりそれが直接的な原因ではないと思うんだ。ジェラード個人に何かしら問題があると思うんだけど」
「何かはわからない?」
「わからない」とスティービーは言った。
「ジェラードが前を向いていないということには奈緒も同意見だよね?」
「うん。だけど、ジェラードは新しいポジションで新しい役割をこなしている」
「それが本来の姿だと思うか?」
「どうだろう。彼らしくはないかもしれない」
そこで会話は止まった。僕たちは言葉を交わすことなくもう一往復モップ掛けをした。
「奈緒、きみは誰かのことを好きになったことがあるか?」とスティービーは訊いた。モップ掛けをして、着替えを済まし、体育館を出て、一年生メンバーで誰がビブスを持ち帰って洗うかを決めるじゃんけんを終え、二人きりになったタイミングだった。
「あるよ」と僕は答えた。
「その人も奈緒のことが好きだった?」
「と思うけど」
「思うじゃダメなんだ。ちゃんと答えてくれ」
「じゃあ、好きだった」
「じゃあってなんだよ、投げやりに答えないでくれ」
どうやら、スティービーは真剣に聞きたがっているようだった。
「幼馴染の子がいて、僕は彼女のことが好きで、彼女もまた僕のことが好きだった」
「そうか」とスティービーは言った。「僕には恋をする資格がない」


スティービーとの思い出を振り返ってみて、僕はスティービーについて何を知っているだろうかと思った。何も知らないのではないか。スティービーは僕について何を知っているだろうか。スティーブン・ジェラードが前を向かなくなったという意見に同意していること、幼馴染の女の子がいて両想いだったということ、それだけなのかもしれない。
 誰のものかも分からない声を聴き続けるだけではやはりだめだ。僕たちは会う必要がある。僕はスティービーに電話をした。彼は出なかった。メールを送った。

一緒に走らないか
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み