第17話

文字数 3,985文字

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 夏休みに入っても大学の敷地には自由に出入りが可能であり、校舎自体も開いている。一部のサークルや部活も行われ、一定期間を除いて図書館も食堂も解放されているから人の往来はそれなりにある。
 僕は本館の地下パーラーで竹内鈴が来るのを待っていた。移動に少なからぬお金と時間がかかるから僕が家の近くまで行くと言ったが、私がお願いしたのだから私の方から足を運ぶと譲らなかった。大学という場所がどういう空間かを知りたくもあるからよければあなたの通っている大学で会うことはできないか。異論はなかった。
 鈴ちゃんは学校の制服を着て現れた。グレーの膝下のスカートに白いブラウス、胸元には赤いネクタイリボンが巻いてある。夏休みの大学校舎に制服姿の女子高生とジーパンにTシャツ姿の男が二人で座っているのは見るからに異様な光景だ。
「何で制服なの?」
「服決めるのがめんどくさかったから」電話の時の丁寧な口調はどこ吹く風だった。
 彼女は全く化粧をしていなかった。
「大学っておしゃれを見せびらかすとこなんでしょ?私ファッションとかよく分かんないから、だったらもう制服で行っちゃえって思って」
「すごい偏見と先入観だけど、まあまあ、間違ってはいない。だからって制服はちょっと」
「まずかった?」
「いや、まずいとかまずくないとかじゃなくて」
「周りの視線が気になる?あいつ女子高生大学に連れ込んでるぞ、みたいな」そう言って鈴ちゃんは周りを見渡した。夏休みの地下パーラーには数人の女子学生がいるだけだった。それでもその数人の女子学生は僕たちを無視できないようだった。
「連れ込んでるわけじゃないからそれは良いんだけど」
「じゃあ何?」と首をひねった。
 何故だか僕は何かに追い立てられているようだ。
「プライベートで制服を着るっていう発想に頭が追いつかなくて。そんなこと考えたこともなかったから」
「そんなこと考えたこともなかったことを考えずにやってのけるのが女子高生という生き物なの」と得意げに言った。
「女子高生」と僕はつぶやいた。
「社会学の先生が聞いたら衝撃を受けるだろうね」と独り言のように僕は言った。鈴ちゃんは「ん?」と顔をしかめた。
「社会学っていう学問があってね、それはまあいいや。で、その学問の先生たちは何故だかスーツを着ない。服装を選ぶ権利があるのに何でスーツを着なくちゃいけないんだって理屈らしい」
「ふーん。制服だったらいちいち服を決める手間が省けるのに」
「その先生に言わせると、それは自由意志の放棄なんだって」
「なんかよくわかんないけどめんどくさい人たちなんだね」
「でも僕は鈴ちゃんはそっち側かと思ってた」
「めんどくさいってこと?」
「そうじゃなくて。学校に行ってないって聞いてたから、その、校則とか制服とかそういう縛りが嫌いなのかなと」
 鈴ちゃんは何も言わずに黙りこんだ。僕は余計なことを口走ってしまったのかもしれない。
「ごめん、気を悪くさせることを言ったみたい」
 彼女は首を横に振った。遠くで自動販売機の飲み物が落ちるガチャンという音が聞こえた。場の空気を改めるために飲み物を買ってこようと思った。なにか飲み物を買って来るから何がいいかと訊くと鈴ちゃんは甘いやつと答えた。何もいらないと言われなくてよかったと思った。自動販売機でオレンジジュースとリンゴジュースを買った。彼女はオレンジを選んだ。
「学校に行ってないっていうのはほんと?」
 彼女はコクリと頷いた。
「六月の半ばくらいから」
 六月の半ば?たしか竹内さんは五月の段階でスティービーに家庭教師の要請をしていた。
「入学してすぐに嫌になった。入学した次の日から体育館に集められて整列して校歌を大声で歌わされる。応援団と有志の人たちが新入生の間をうろうろして歌っていない人とか声が小さい人を見つけると怒鳴り散らす。女の子は泣きながら歌ってた。そんなのが一週間も続く。最後の日にはよく頑張ったとか褒めだすんだよ。もうバカみたい」
 彼女はオレンジジュースをごくごく飲んだ。そして続けた。
「それが終わってからは普通に通ってたんだけど、それでもやっぱり何か嫌で。何が嫌なのかは分からないんだけど、ここにいたくないって思ったの」
そこまで言うと鈴ちゃんは言葉に詰まった。
「それで行かなくなった?」と僕は訊いた。
 彼女は頷いた。竹内さんが言っていたようにどうやらいじめや人間関係の問題ではないようだ。僕は考え込んだ。
「なにかおかしい?」と彼女は僕に訊いた。
「ううん、おかしくないよ。僕も高校にはあまり良い思い出がないから。でも、それならやっぱり制服を着てるのがちょっと違和感があるっていうか、矛盾してるような」
「矛盾は矛盾のまま受け入れる。それはそれこれはこれ。カントじゃないんだから」
「カント?」驚いて声が上ずってしまった。
「カントってあのカント?」と僕は訊いた。
「どのカント?」
「『純粋理性批判』のカント?」
「それ以外にどのカントがいるの」
「何でカントなんか知ってるの?」
「何でカントくらい知らないと思ったの?バカにしてる?」
「バカにはしてないけど、知ってるとは思わなかった」
 鈴ちゃんは深いため息をついて、肩を持ち上げてそれから落とした。
「あのね、今高校に入ったら、まず最初に教科書を買うときに『純粋理性批判』も買うことになってるの。それを三年間かけて読み解くことが指導要綱に盛り込まれてるの」
「そうなの?」と僕は訊いた。
 鈴ちゃんは呆れた顔をした。ペットボトルを握ってそれを指し棒のように振って言った。
「そんなわけないでしょ。小川さんヤバイよ。ちょっと考えたらそんなことありえないって分かるでしょ。そのうち高い壺とか買わされるよ」
 僕はまだ言葉が出なかった。決して悪い指導要綱ではないと思うがたしかにそんなことありえない。ちょっと考えたらわかることだ。
「家のピンポンが鳴ったからって出ちゃダメなの。出たとしてもセールスはちゃんと断らないといけないの」
「でも鈴ちゃんは出た。出たというか窓から顔をのぞかせた」
「あんなに何回も鳴らされたら出るしかないでしょ。うるさいったらなかったんだから」
「ごめん」と謝ったが、なぜ謝らなければならないのか腑に落ちなかった。
「カントはテレビでやってるのを見たから知ってただけ。あんなの入学早々買わされたらそれこそ学校に行かない人が増えるでしょ」
「それはどうだろう。なかなか面白い試みだと思うけど。鈴ちゃんもテレビを見たわけでしょ?少なくともチャンネルを変えずに」
「うん、まあ」肩を突き出して左手で右手首をつかみ背中を少し丸めた。
「よかったら貸してあげるよ、読んでみたら」
 鈴ちゃんはそのままの姿勢で何も言わなかった。
「それで話は戻るんだけど、お母さんはなんて言ってる?学校のこと」
「まだ学校に行ってた時は色々と話はしてた。軍隊みたいでいやだとか。お母さんは、学校はそういう場所なんだから我慢するしかないんじゃないって。でも、行かなくなってからはほとんど話をしてない。なんか話をしなくちゃとは思うんだけど、私も何が嫌なのか自分でもよくわからないから上手く説明ができなくて」
「お母さんの方からも何も言ってこない?」
「うん。どう言ったらいいのか分からないんじゃないかな。学校には行って欲しいと思ってるんだろうけど」
 鈴ちゃんはうつむき加減でそう言った。
「それでね」と鈴ちゃんは声を明るくした。
「それでね、私、小川さんに家庭教師をお願いしようと思って電話したの」
「もし鈴ちゃんが望んでいなくてお母さんのためにお願いしようと思ってるんだったら止めた方がいい。僕も引き受けない」
「そうじゃない。たしかに私の知らないところで話が進んでて戸惑ったしちょっと腹も立ったけど、君は何も気にしなくていい、なかったことにしようって言われても、はいそうですかとはならない。知ってしまったことを知らない振りはできない。なんか無下に扱われているようで私の気が許さないから。あなたももう引き下がれないでしょ」
 僕は少し考え込んだ。館内を歩く人の足音がぽつぽつと響いた。プリンターの稼働する音も響いた。
「僕は一方的に鈴ちゃんから引き下がろうとしていたのかもしれない。分かった。やろう。でも、一度三人でちゃんと話をしよう。さすがに話が絡まりすぎてる。学校のことは申し訳ないけど僕がどうこう言える問題じゃない。でも家庭教師の件についてはお金をもらうことにもなっているから、このままうやむやなまま進められない」
 鈴ちゃんは頷いた。

 それから僕は鈴ちゃんの要望に応えて大学の施設を一通り案内した。収容人数が20人程度の小さな教室から、数百人が収められる大きな教室まで様々な講義室があることに驚いているようだった。僕自身も使ったことのない教室を回ってなんだか秘密の冒険をしている気分だった。見慣れた風景も条件が変われば新鮮なものとして目に映る。妹の付き添いでオープンキャンパスに参加した兄のような気分だった。
 学内を案内した後、鈴ちゃんを駅まで見送った。改札を通る直前、「今度持ってきて」と鈴ちゃんが言った。何のことかわからずに首をひねる僕に、少し照れくさそうカントと言った。僕は自然に笑みがこぼれた。
「覚えてたらね」
「先生のたらは信用できるの?」
「できないって周りは言う」
「じゃあ期待しないでおく」
 そう言って彼女は改札を通ってホームに向かった。
 
家庭教師を引き受けたはいいが、何をどう教えたらいいのだろうか。高校の勉強は本当に覚えていない。僕自身が勉強し直さなければならない。何とかなるだろうか、何ともならないだろう、でもどうにかするしかない。
「先生のたらは信用できるの?」
先生?確かに彼女はそう言った。「先生」。悪くない響きだ。僕はいつのまにか先生になってしまった。
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