第29話

文字数 3,772文字

29
「紅茶とコーヒーどちらがいいですか?」と
竹内さんが訊いた。「コーヒーでお願いします」と僕は答えた。「紅茶がダメなもので」
「紅茶苦手なんですか?」
「後味がどうも駄目なんです」
「じゃあコーヒーにしますね」と言って竹内さんは台所に立った。
 台所で作業をしながら「じゃあシナモンも苦手でしょ?」と竹内さんが言った
「はい、苦手です。どうして分かったんですか?」と僕は驚いて訊いた。
「似てるところがあると思ったんです。口に入れた瞬間は甘いけどすぐに甘さとは異なる風味が広がる感じが」
「まさにその通りです」
 そこでいったん会話は途切れた。コーヒーポットがプクプクと音を立てている。
鈴ちゃんは今朝通常通り学校に行ったという。昨日鈴ちゃんと連絡がつかなかったことを伝えると、夜はリビングには下りて来なかった、部屋で寝ていたのだろう、ということだった。今朝も体調が悪い様子はなかったという。それを聞いてひとまず安心した。
鈴ちゃんが学校に行き始めたことは知らなかったと竹内さんに伝えた。二学期の始業式の日から通い始めたという。「私としては再び学校に通い始めたことは嬉しいが、無理をしてまで行って欲しいとは思っていない。今は様子を見る時期なのだろうと思っている」
 コーヒーの入ったカップを二つ盆にのせて運んで来て、僕の前に一つを置き、もう一つもテーブルに置き、盆を台所に戻してから竹内さんもテーブルに着いた。
ミルクを入れて一口いただいた。コーヒーなんて苦さに程度の差があるだけで、味に違いなんかない。コーヒーに限らず、食べ物の感想に「コクがある」とか「深みがある」と評する人を僕はいまいち信用できない。
 竹内さんはブラックのまま一口飲むと席を立って台所のカウンターの上に置かれた小さな棚の引き出しから封筒を取り出した。再びテーブルに着いて、「どうもありがとうございました」と頭を下げて僕に封筒を渡した。
「ありがとうございます」と僕も頭を下げてそれを受け取った。卒業証書授与みたいだった。
「家庭教師代として五万円、諸々の感謝として餞別三万円いれてあります」
「餞別までいただいてありがとうございます」
ここはそのまま有り難く受け取ろうと思った。
「小川さんに初めてお願いした時のことは本当にすみませんでした」と改めて竹内さんは丁重に謝罪した。
「そのことはもういいです。気になさらないでください。訳が分からなったし腹も立ちましたけど、鈴ちゃんと会えたことは良かったと思っています。でも僕は本当に何もしてないも同然です。鈴ちゃんの話し相手をしているようなものでしたから」
「家庭教師を引き受けていただく前にも云いましたが、それで構わないのです。鈴は笑顔になったし会話もそれなりにするようになりました。勉強は二の次です。父親は海外に、姉は東京に、あっ栞にはもう会ったんですよね?」
「はい。お会いしました」
「小川さんが倒れた日ですよね?ところで体調の方は?」
「ええ、もうすっかり」
「よかったです。一週間寝込んだと聞いたので本当に心配だったんです」
「その節は迷惑をおかけしました」と僕は頭を下げた。
「あの日二人が一緒に帰って来たのでどうしたんだろうと思ったんです。詳しくは聞いていないのですが、小川さんの幼馴染の方が栞の東京でのバイト先の同僚だとか」自分自身で整理をつけるように僕に問いかけた。
「そうみたいですね。僕も驚きました。その幼馴染が一人でいるものだと思っていたらそこに待っていたのが栞さんで、さらにその人が鈴ちゃんのお姉さんだとは。鈴ちゃんが『お姉ちゃん』って言うもんだから、そこで僕はパンクして倒れてしまったんです」
 倒れたのは栞さんが若菜にそっくりであることが大きな要因であったのは間違いないが、それは言わない方がいいだろうと思った。
「その時に栞さんに看病して頂いたんです。その節はありがとうございました。助かりました」
 いえいえと言って竹内さんは首を横に振った。そしてコーヒーを飲んだ。僕も一口飲んだ。竹内さんはテレビの音量を下げた。
「あの子が看護学校に行くと言った時、私は初め反対したんです。もちろんやりがいのある仕事ですが、大変な仕事です。勤務時間は朝だったり昼だったり夜だったり定まらないし、病院内の人間関係は複雑だし、心穏やかな患者さんばかりじゃない、中には心もとない言葉を投げかけてくる人もいる。何より人の生死に正面から向き合わないといけない。精神的にも肉体的にも相当に神経がすり減る。まず体力がないとやっていけない」
 僕は黙って頷いた。その一言一言に僕には想像もつかない重みがあった。
「もちろん仕事を始める前からそんな覚悟が芽生えるはずもないのだけれど、それくらいの覚悟は必要だってことは分かってほしかった。私が実地で経験してきたことだから。夫も医者だからその辺の事情はよく理解していて栞にいろんな話をしていました。それでもやりたいと思うのなら目指しなさいって言ったんです」
「やるって決めたんですね」と言うと、竹内さんは静かに頷いた。賛成の頷きなのか反対の頷きなのか僕には判断ができなかった。竹内さんはコーヒーカップの中を静かに覗き込んでいた。
「小川さんの夢って何ですか?あの時は『お金持ちになりたい』って言ったみたいですけど、あれは本当のところではないでしょ?」とコーヒーカップから僕に視線を移して訊いた。急に目を見据えられて僕は戸惑った。僕は少し考え込んだ。
「んー僕は何かになりたいと思ったことがないんです。昔サッカーをやってたんですけど、その時もサッカー選手になりたいとは思っていなかったですし、今文学部ですけど、文学者になりたいわけでもない。その時に興味のあることを勉強して読みたい本を読む。一貫性がないんです。昔から目標を立ててそれに向けて努力をするという工程がどうも性に合わないんです。たとえば、中学高校では試験期間になると勉強計画書なるものを作成しますよね?僕はあれ通りに進めたことがないんです。だから、なんというか、わからないです。何になりたいのか」
 竹内さんは何も言わなかった。言わないどころか聞いていないようにも見えた。僕も特に付け加えることもなかった。ただなにも発せられない時間が流れた。僕はコーヒーを眺めた。ミルクの入ったコーヒーは薄い茶色をしている。カップを反時計回りに二度回すとコーヒーが波打った。ミルクが入っていなければその黒い液体の中に吸い込まれる感覚に襲われていたかもしれない。ぎゅーっと目を閉じてぱっと開き、頭を数回横に振って気持ちを切り替えようとした。
「ところで、開脚教室にはまだ行ってるんですか?」と僕は話題を変えた。
「えっ?」と竹内さんは聞き返した。やはり己の世界に沈没して話を聞いていなかったようだ。僕を見るその目はただの黒い点にしか見えなかった。僕は同じ質問を繰り返した。
「はい、行ってますよ」
 それ以上の続きはなかった。疲れているのだろう。僕もこれ以上話をするのは止めようと思った。
「そろそろ失礼します」と僕は言った。
「そうですか」と竹内さんは機械的に言った。やはり疲れているのだ。切り上げるのに適切な時間だったのだ。
 僕はコーヒーを飲み干し、お金の入った封筒を手にして改めてお礼を言い、カバンにしまった。
「コーヒーごちそうさまでした」
「そのまま置いておいてください」
 玄関先まで見送りに来た時、「小川さんに連絡するように私から鈴に言っておきます」と言葉を残した。「僕からも連絡します」と言って僕は玄関を出た。
 竹内宅を出ると、ちょうど栞さんが帰ってきた。「あーいい運動になった」とわざとらしく言った。その一言で図書館に返却に行っていたのだと分かった。「それはよかった」と僕は返した。
「それだけ?冷たい」
 冷たいと言われて自分がそっけない言葉を返したことに気がついた。竹内さんの上の空の様子が気にかかって、自分自身もどこか上の空になっていた。でも栞さんのそのわざとらしさにどう返したらいいのか改めて考えても分からなかった。冗談の一つも思い浮かばなかった。
「ごめん、言ってくれたら送ったのに」
「なんか変だよ」と栞さんは顔をしかめた。
「どうだった?怒られた?」と訊いた。明るく繕おうとしたがぎこちなかったかもしれない。
「厳重注意で済んだ」と栞さんは言った。胸をなでおろしているように見えた。
 何か話を続けなければいけないと思うのだが次の言葉が出て来ない。目の前に栞さんがいるというのにこんなそっけない態度しかとれないのならば、いっそブラックコーヒーに吸い込まれてしまっていた方がよかった。ミルクなんて入れなければよかったんだと思った。
「もう帰るの?」と栞さんが訊いた。
「ちょっと行くところがある」
「よかったら私も一緒に行っていい?」
 これから向かおうとする場所が場所だからなのか、僕の気分が沈みかけているからなのか、今は構わないでほしい、放っておいてほしいと思った。
「だめ?邪魔?」
「邪魔じゃない。でも来ない方がいい」とまたそっけなく言ってしまった。
「そう、わかった。じゃあね」と言って栞さんは家の中に入って行った。その背中はひどく寂しそうだった。申し訳ないことをした。でも彼女を連れていくわけにはいかないのだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み