第27話

文字数 6,897文字

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 週が明け、家庭教師を再開するため、いつもの時刻に竹内宅に向かった。呼び鈴を鳴らすと栞さんが玄関に出て来た。彼女に会うのはあの時以来これが二回目だった。やはり、若菜に見えて仕方がない。栞さんを見た途端に心臓の鼓動が速くなり自分の中から言葉が消えていく。
「こんにちは」と栞さんが挨拶をした。それで僕はハッと我に返り「こんにちは」と返事をした。
「風邪は良くなりましたか?」と栞さんは訊いた。「ええ、もうすっかり」と僕は答えた。
「あの、家庭教師に…」
「鈴ならいませんよ」
「いない?」
「学校に行きました」
「学校に行った?」
 戸惑っている僕を見て栞さんの方も少々困惑しているようだった。
「聞いてなかったですか?」
「はい」と言って僕は頷いた。本人からも竹内母からも何も聞いていない。気がつけばもう九月に入り新学期は始まっている時期だが、まさか登校しているとは思ってもみなかった。
「なんか、家にいるのが退屈になってきたみたいです。だからひとまずまた行ってみるって」
「じゃあイヤイヤなわけではない?」
「んーどうなんでしょう。家に帰ったら学校の文句をたらたらこぼしているから。まぁ元気にはしてますよ」
「それならよかった」
「それに、人間ではない奴が書いた本を読んでるから、人間が可愛く思えてきて学校生活も何とかなりそうだ、とかよく分からないことを言ってます」と首をひねりながら栞さんは言った。
 さぁ何のことでしょうという表情を僕は浮かべた。さぁ何のことでしょう。
「今日は家庭教師の日だったんですか?」と改めて栞さんが訊いた。
「はい、一時から」
「そうですか。何で鈴は何も言わなかったんだろう」
「僕も来週から行けると思うくらいにしか連絡をしていなかったので」
「四時過ぎまで帰って来ないと思いますけど、中で待ちますか?」
「いえいえ、そんなに長くはお邪魔できません。日を改めます」
 栞さんは少し難しい顔をして考え込んだ。どうしたのだろうと思って彼女の顔をじっと見つめた。わかな、と思わず声に出しそうになった。本当に若菜が生き返ったようだと思っていると、「小川さんちょっと時間ありますか?」と栞さんが深刻そうに訊いた。どんな秘密を打ち明けられるのだろうと身構えて「はい」と答えると、「キャッチボールの相手をしてくれませんか?」と明るい表情で栞さんは言った。僕は瞬時に返事ができなかった。
「ダメですか?」と言って栞さんは僕を見た。ダメだと言えるはずがなかった。
「僕でよければ」
「よかった。じゃあ準備してきます」とにこりと笑って家の中に入って行った。ニ階を見上げると、いつも開け放たれている鈴ちゃんの部屋の窓が確かに閉まっていた。
初めて竹内宅を訪れた時、この家は内装が一面白色で統一され、観葉植物が所狭しと並べられた、呼吸が止まってしまいそうな空間だろうと勝手に想像していたのだが、実際に家の中に上がると至って普通に生活感が溢れていた。鈴ちゃんの部屋も、ベッド、学習机、本棚、それからCDラックが置かれている一般的な女の子の部屋だ。僕の中の女性の部屋のデータは佐々木姉妹以外にはないから、それが一般的なのかどうかは分からないが、特殊でないことは確かだと思う。
 ところでキャッチボールなんて小学生以来だ。ボールってどう投げるんだっけ?投げる以前にどう握るんだっけ?と昔を回想していると、栞さんが阪神のレプリカユニフォームを着て現れた。
「どう?」と笑顔で訊いた。たぶん、ユニフォームが似合っているかどうかを訊いているのだろう。
「うん」とだけ答えた。もういちど「どう?」と訊かれて、もう一度「うん」と答えた。もういいと彼女はすねた。
 グローブ二つと硬式の野球ボールを一つ持って家を出た。彼女の横に並んで歩いた。
「野球は見るだけじゃなくてやるのも好きなの?」と僕は訊いた。
「小学生の時に少年野球のチームに入ってて、中学の時はソフトボール部だった」
「意外」
「よく言われる。運動しているようには見えないって」
「高校ではやらなかったの?」
「うん、部活に疲れちゃって。でもたまに妹とキャッチボールをしたりしてた。小川さんは?なんかやってた?」
「僕は中学までサッカーを」
「高校ではやらなかった?」
「うん、ちょっとね」
「若菜さんのことが関係してる?」
「まあ」
「聞かない方が良かった?」
「ううん大丈夫。飛鳥から何か聞いてる?」
「二人はとても仲が良かったってことくらい」
「だから若菜がいなくなって何もする気がしなくなってね」
「そっか」
 しばらく二人とも何も言わずに黙って横に並んで歩いた。樫の木坂内の公園を横目に通り過ぎ、歩き続けて樫の木坂の外に出た。
「どこまで行くの?」と僕は訊いた。
「ちょっと歩いたところにある公園」と僕の方を見ずに前を見据えたまま言った。
「樫の木坂の中に公園があったと思うけど」
「あそこはなんかね」と言って彼女は立ち止った。それから樫の木坂を振り返り、じっと見つめ、何も言わずにまた振り返って樫の木坂を背に歩き始めた。
しばらく歩いた後、「遠くに行きたかったんだ」と栞さんは言った。僕は彼女を見た。きれいな横顔だった。「ここが嫌いっていうわけじゃないんだけど、とにかく遠くに行きたかった。それで東京の学校に行くことにしたの」そう言って僕の方を向いて微笑んだ。その微笑みはどことなく寂しかった。
 一五分ほど歩いて公園に着いた。トートバッグをベンチにおいて、早速キャッチボールを始めた。公園でよく見かけるカップルのバドミントン程度の軽さだろうと甘く見ていたが、そこそこ本格的なキャッチボールになった。さすがは少年野球とソフトボール経験者だ、球が重くて一球一球捕るたびに手が痛い。競技こそ違えど、球技に足を突っ込んでいてよかったと初めて思った。ボールを受け取って相手に渡すという点では、サッカーとキャッチボールでも同じだ。それだけが唯一の頼りだった。相手が捕りやすいボールを供給する。パス交換に意地悪は必要ない。
 塁にランナーが出ておらずクイックモーションを必要としないピッチャーがゆったりと投げるときのように、胸の前に構えた腕を頭上に高く上げた時、阪神のユニフォームが上に持ち上がり、中に着ていたシャツがめくれて栞さんのお腹が露わになった時は目のやり場に困った。動揺しているうちに、栞さんの投げたボールは僕の胸の横を通り過ぎていった。知らぬ間に横を通り過ぎていく方法は一つではないようだ。
 彼女を真似て僕も腕を高くあげてゆったりと投げてみたが難なくキャッチされた。
「お腹が出てるよ。夏だからってお腹を出してるとまた風邪ひくよ」と彼女は言った。そっくりそのまま返してやりたかったが、指摘して良いものなのかどうかわからなかったので何も言わなかった。しかしさすがにそれが五回も十回も続くと気が気でなくなって来たので「さっきからお腹が見えてる」と言うと、「何でもっと早く言ってくれなかったの」と栞さんは怒った。
 彼女はシャツの裾を黒いスキニーパンツの中に入れ、「休憩」と宣言した。二人でベンチに座ると、もう一度「何で言ってくれなかったの」と問いただした。
「指摘して良いものかわからなかったから」
「それでずっと見てたの?」
「最初だけ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「それに」
「それに?」
「目が悪いから」
「じゃあいい」と彼女は納得した。この人は大丈夫かと心配になった。向かいに立っている人のお腹が露わになっているのだ、見ようとしなくても見えてしまう。見ようとすればなおさらよく見える。
 僕はトートバッグから竹内宅に来る前にコンビニで買った未開栓のペットボトルのお茶を取り出して栞さんに手渡した。
「いいの?開いてないけど」
「うん。いずれ開けるし」
 彼女はありがとうと言って蓋を開けて一口飲んだ。もう一口飲んでから僕に返した。僕はそれを受け取って飲まずに手に持っていた。
「飲まないの?」と彼女が訊いた。
「いまは」と僕は答えた。
「ふうん」と彼女が言った。
 九月の平日の午後に公園にいるのは不思議な感覚だった。平日の午後に公園にいるなんて高校生のときには考えられなかった。幼稚園帰りと思しき男の子とおじいちゃんが滑り台で遊んでいた。男の子が滑り下りてくるのをおじいちゃんが下で待っている。
「飛鳥ちゃんに初めて会った時、向こうは相当驚いていたんだけど、私もびっくりしたの。どことなく鈴に似てたから」と栞さんが言った。
「お互いが言葉を失ったんだろうね。その様子が目に浮かぶ」
「そうなの」と彼女は笑った。「お互い何も言わずに向き合ったまま。『かなちゃん生きてる』ってそれが二人の間の第一声だった。それから私に近づいてきて顔やら体をべたべた触るの。何この人?って思ったけどなされるがまま」
「飛鳥ならやりそう」と僕はつぶやいた。
「『やっぱりかなちゃんだ』って私はもうわけが分かんなくて、自己紹介しても飛鳥ちゃんは聞く耳持たず。そんなこというのが妹に似てる子だから余計頭が混乱して…」 
 僕は相槌を打ちながら話を聞いていた。手に取るようにその情景を思い浮かべることができた。
「時間が経って冷静になった時に飛鳥ちゃんが説明してくれて、その時に若菜さんのことを聞いたの。写真を見せてもらった時は本当に驚いた」
「だろうね。自分だったら何かの間違いだって言い聞かせて受け入れられないと思うな」
「うん、でも何故かその時はすっと受け入れられた。飛鳥ちゃんが鈴に似てたからかな」栞さんは両足をぶらぶらさせながら空を見上げた。
「七月に入った頃かな、地元が同じ方向だから一緒に帰省しようって飛鳥ちゃんに持ち出されたのは。驚かせたい人がいるからって」
「それが僕だったわけか」
「でも、若菜さんと仲が良かった人だとしか聞いてなくて」
「まぁそれ以上でもそれ以下でもないからね」
「付き合ってたんじゃないの?」
「どうだろう。僕は好きだったけど」
「若菜さんもでしょ?」
「たぶんね」
「今は、恋人は?」
「いない」
「ふうん」と彼女は言った。
「栞さんは?」と僕は訊いた。
「いるよ」と彼女は答えた。
「ふうん」と僕は言った。
「謝っといて」
「何を?」
「お腹を見たこと」
「それは秘密にしておく。言えるわけないでしょ」と彼女は微笑んだ。「そうだね」と言って僕も微笑んだ。
 僕は気になっていたことを栞さんに訊いた。
「ねえ」
「なに?」
「栞さん、『自殺論』読んだことある?」
 それを聞くと栞さんは反射的に背筋をピンと伸ばし、何かまずいことを思い出したような表情をした。
「すっかり忘れてた」
 それから僕の方に向き直り「小川さん、車の免許もってる?」といかにも緊急事態らしく訊いた。その勢いに押されながら僕は頷いた。
「今免許証持ってる?」
「うん」
「市立図書館まで運転してくれない?」
「竹内家の車を?」
「そう」
「それはさすがに…なんかあったらまずいし」
「何かないように気をつけて。私免許ないから。お願い」と僕を見た。しかしこればかりはそう易々と首を縦に振っていいことではない。人様の車を運転するのはキャッチボールをするのとは次元が違う。保険の問題もある。
 渋っていると、栞さんは僕のトートバッグを肩にかけ、僕の手をとってベンチから立たせて引っ張って歩き始めた。僕はため息をついた。もう運転するしかないのだ。
 運転席のシートとフロントミラーを調節し、シートベルトを締めて出発した。
「ずっと返却するのを忘れてた。もう借りてることすら忘れてた。どうして分かったの?」と栞さんが不思議そうに訊いた。
「開脚教室で竹内さんに会った時『自殺論』の話になって、娘が読んでるのを見たことがあるって言ってたんだけど、鈴ちゃんの部屋にはなかったから栞さんかなと思って」
「学校の授業で取り扱ったの」
「看護学校の授業で?」
「社会学の授業があってね、先生は他の大学からの外部講師なんだけど。その時に参考資料として挙げられていたのがこれで」と言って手に持っている『自殺論』を指し示した。「ちょっと気になったから去年の夏にこっちに戻ってきたときに図書館で借りて読んだの」
「どうだった?」
「どうだった?」とおうむ返しをした。質問の意図が分からなかったようだ。
「その、読んだ感想」
「あんまり覚えてないな。良い人がいたらとっととつかまえて結婚しちゃいなさいってことでしょ?」
「そんなこと書いてた?」と僕はちらっと助手席の方を向いて訊いた。
「先生が言ってた。そういう話だって」
 それについて考えてみた。そういう読み方もあるのかもしれないと思った。
「そうかもしれない」と僕は答えた。心のどこかで、彼女が「本屋大賞をとればいいな」と言うのではないかと期待している自分がいた。そんなこと期待すべきではないのだ。彼女は若菜ではない。竹内栞なのだ。次の信号を左と彼女は指示を出した。
「去年の夏ってことはじゃあもう一年以上も借りてるってこと?」と話題を変えた。
「怒られるかな」と彼女は不安そうな表情を浮かべた。
「盗んだことになってるかもね」と少し不安を煽るように言うと「いじわる」と言ってそっぽを向いた。
 図書館に到着したが駐車場が開いていない。駐車スペースが埋まっているのではなく、駐車場そのものが開門していない。館内の電気は点いてなく、図書館周辺に人の気配もない。路肩に車を停めて僕は栞さんに今日は何曜日かと尋ねた。
「今日?月曜日」
「月曜って市立の図書館が閉館の日じゃなかったっけ?」
 二人で車を降りて図書館の入り口に向かうと閉館と書かれた立て看板が出ていた。栞さんはうなだれた。
「ごめんなさい、二度手間をかけちゃった」と僕に謝った。
「ううん、仕方ないよ。こっちも調べてから
来ればよかった」
 車に戻った。栞さんはもう一度ごめんなさいと謝った。本当に気にしなくていいと僕は言った。緊急事態時には日常の当たり前のことはどこかに追いやられてしまうものだ。
「また返しに来なくちゃいけない」と栞さんは呟いた。それから僕の方を見た。含みのある視線だった。
「歩けばいい運動になるね」と僕は言った。
「さっき足を捻挫したみたい」と栞さんは左の足首をさすった。
「人間の足は二本あるから」と返すと、もういいと彼女はまた拗ねた。
 時刻は15時半を回ろうとしていた。「鈴ちゃんはそろそろ学校が終わる頃?」と僕は栞さんに訊いた。栞さんは時間を確認してから「そうだね、そろそろかも」と答えた。
「このまま迎えに行こうか?」
「んー…でも、学校は車での送り迎えが禁止だからな」と思案深げに考えていた。
「鈴ちゃんは電車通学?だったら近くの駅に行って待ってようか?」
「それならいいかも」と栞さんは請け合った。
 駅のロータリーに車を停めて待っていると、多くの学生が吸い寄せられるように駅の中へと入って行った。同じ制服を着ているのに、ある人はパンパンに膨らんだ鞄を二つ肩にかけており、ある人は何が入っているのだろうかと心配になるくらいぺちゃんこな鞄をセカンドバッグのように手に提げている。不思議なものだと思った。
 そのように十人三色くらいの学生が通り過ぎていくのだが、待てど待てど鈴ちゃんの姿は見えなかった。16時半まで待って、栞さんが電話をかけるともう家にいるとのことだった。昼休みに人間ではない奴が書いた書物を集中して読んでいると頭が痛くなり二時過ぎに早退した。お母さんは車では仕事に行かないのに家に帰ると車がなかったからおかしいと思っていた。
ちょうど入れ違いになったようだ。僕たちは竹内宅に帰った。
 ニ階の鈴ちゃんの部屋の窓が開け放たれていた。
「鈴に会って行く?」
「ううん。頭が痛いんだったらそっとしておこう。後で連絡する」
「そう、わかった」と頷いた後、思いつめたように「ねえ」と僕に言った。
「なに?」
「私が口をつけたのがいやだった?」
 僕は何のことかわからなかった。返事ができずに困っていると、「ほら、お茶くれたでしょ。私が飲んだ後、飲まずに手に持ってたから」と言い足した。それでようやく何のことか合点がいった。
「いやじゃないよ。意識はしたけど嫌だったわけじゃない」
「ほんとに?」
「うん。全然嫌じゃない」
「よかった。悪いことしたかと思って気になってたの」と言うと、思いつめた表情が晴れやかになった。そんなことを気にしていたとは全く思ってもみなかったし気が付きもしなかった。
 僕は一体どんなことに気がつけるのだろうかと反省をしていると、「何か鈴に渡しとく物とかある?」と栞さんが訊いた。僕はトートバッグから『純粋理性批判』に関する資料の入ったクリアファイルを取り出した。
「それ何?」と栞さんが興味深そうに訊いた。
「人間じゃない奴が書いた書物に関する資料」
「あなたたち二人で何か良からぬことでも企んでるの?」と言って栞さんは笑った。
「楽しみにしてて」と僕は笑って返した。「でも、やっぱりいいや。今度直接渡す」
「そうね、それがいいかも」
 僕はクリアファイルをトートバッグにしまい、車の鍵を栞さんに返して竹内宅を後にした。

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