第11話

文字数 2,873文字

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 博多駅は人が多い。山口県の田舎町から福岡に出てきた僕はこの人の多さにいまだに慣れない。東京はこれ以上なのだと考えると頭が痛くなる。実際、人混みの中を歩いた日の夜は十中八九頭が痛くなる。そんな時は薬を飲んでおとなしく横になる。今日もきっと家に帰ると頭が痛くなるだろう。そうなったらそうなった時だ、薬を飲んで寝ればいい。
 30分ほど駅構内をうろつき、パン屋でパニーニを買って、新幹線改札口に向かった。ベンチに座り、パニーニを食べた。
のぞみ・東京行き。博多から小倉までは一駅しかない。このまま東京まで行ってしまおうか。五時間。悪くない。どうせ帰っても頭が痛くなるだけなのだ。薬が家にある保証もない。新幹線なら頭痛薬を常備しているに違いない。「すみません、頭が痛いので薬をもらえませんか」と一言声をかけたらいい。家にいて、重い身体を起こして靴を履いて外に出て薬局に行くより楽だ。「申し訳ございません、お客さまに薬をお出しすることはできないんです」と言われるかもしれない。帰ろう。
「小川さん?」と後ろから声をかけられた。 竹内さんだった。
「小川さん小倉方面なんですか?」
「はい、小倉南区です。竹内さんは?」
「私は八幡です」
 僕たちは1号車自由席に隣合って座った。
「小川さんは大学生?」
「そうです。二年生です」
「ひとつお願いがあるのですが」と竹内さんは神妙な面持ちで切り出した。
「なんですか?」と僕は不安げに訊いた。
「娘の家庭教師をしてくれませんか?」
「家庭教師?」
この人はいきなり何を言いだしたのだろうか。
「はい、勉強を教える」
「それは分かります。またどうして」
「娘は今学校に行ってないんです。籍は置いてあります」
「不登校?」
「ええ」と小さな声で言って頷いた。
「いじめとか?」
「そうではないみたいです。いじめられているわけではない。肌に合わない、あんなところにいたら頭がおかしくなると言っています」
 あんなところにいたら頭がおかしくなる。わからなくもない。学校とはそういう側面もある場所なのだ。
「それで実際に学校に行っていない?」
 竹内さんは何も言わず首を縦に振った。
「私としては学校に行って欲しいのですが、何せ娘は一度言い始めたらもう聞かないので。行かないと言ったら行かない」
「でも勉強はしてほしい」
「はい。だから家庭教師を」
「娘さんはそれを望んでいるんですか?」
「娘の方から言ったんです。家庭教師をつけてほしいと。学校はいやだ、でも勉強はしたくないわけではないと。わがままですよね?」
「いいえ、僕はそうは思いません。学校だけが勉強をする場所ではないですから。上から目線で失礼なことを言うようですが、学校に行ってない娘はおかしい、そんな子をもった母の私は、なんて絶対に思わないでくださいね。決しておかしいことではありませんから」
 竹内さんは少なからずそういう風に思っていた節があったのかもしれない。目にうっすらと涙がたまっているのが分かった。声にして身体の外に吐き出せたことで堰が切れたのかもしれない。
「お金はもちろん払います」
話がどんどん先に進んでいく。
「とりあえず週に一回一度に2万円でどうですか?」
「一度に2万円?」僕は驚いて声が大きくなった。通路を挟んだ隣のサラリーマンから睨まれた。「そんな大金もらえません。それに僕は家庭教師が務まるような学力じゃないですよ。娘さんは高校生?」
「はい高校一年生です」
「大学に入ると同時に高校の勉強はどっかに行ってしまいました。因数分解すらもう覚えていません。五賢帝の名前が言えるくらいです」
「子守だと思ってお願いします」
因数分解と五賢帝は流された。
「それだと余計にお金をいただくわけにはいきません。子守で家庭教師が務まるのなら汗水流してお金を稼いでいる人に顔を向けることができません。正規の家庭教師にも子守を生業にしている人にも失礼です」
「小川さんは真面目なのですね。決めました。やはり小川さんにお願いします」
「勝手に決めないでください。真面目どうこうじゃなくて常識の問題です」
「小川さんは常識があるということです。だからお願いしているのです」
 中華料理店にいた時とはまるで別人だ。何を言っても通用しない気がしてきた。前方の電光掲示板にはホークスの勝利を伝えるオレンジ色の文字が流れていった。ホークスファンではない僕にはどうでもよいことだった。
「お願いします。小川さんしか頼める人がいないんです」
「ちゃんとした家庭教師を雇ったらいいじゃないですか」
 それには返答がなく、少し間が空いてから竹内さんは言った。
「実は先ほど話題に上がったツァラ何とかの彼にもお願いしたんです。前回お会いしたときに。でも彼にも断られました」
 スティービーのことだ。スティービーもこの婦人に家庭教師をお願いされていたのだ。でも断った。当然だ、誰でもそうするだろう。しかしながらスティービーが引き受けてくれていたら今頃こんな面倒な話に巻き込まれていなかったのにと思わずにはいられなかった。一体どこで何をやっているんだ。僕はだんだん腹が立ってきた。スティービーに。竹内さんに。そして吉田先生に。あなたが開脚教室なんて開くから、こんなことになっているんだ。そして僕自身に腹が立つ。やはり来なければ良かったんだ。僕は窓の外の景色を見て気持ちを落ち着かせた。東京まで行こうなんて考えている場合じゃなかった。早く新幹線を降りて外の空気を吸いたい。
「何かバイトをしてるのですか?」
「辞めたばかりです」
「ちょうど良いじゃないですか」
 どう風が吹いたらこんなに饒舌になれるのだろうか。風の通り道は程よく塞がっているくらいがちょうどいいみたいだ。
「僕にできることがあるのなら力になりたいとは思います、でも急に言われても困ります。今ここで答えを出すことはできません。少し時間をおいて考えさせて下さい。いずれにしてもそんな高給はもらえませんから」
 竹内さんは連絡先を僕に教えた。博多小倉間が一駅で良かったと心底思った。新幹線を降りた後、僕はトイレに行くと言って竹内さんと別れた。竹内さんは新幹線口からそのまま在来線ホームに向かった。
 僕はトイレを済ませた後新幹線改札口を出てバス乗り場に向かった。発射時刻を確認してからベンチに腰をおろしてバスを待った。辺りはもう暗くなっている。雲に隠れた月がうっすらと見える。風は少し肌寒い。隣に座っている大学生らしき女性は赤い薄手のカーディガンを羽織っている。「あの、ひとつお願いがあるのですが」と声をかけようかと思った。
「ちょっと家庭教師を…」と。気味悪がられるだけだ。
 バスが来た。でも僕の腰は立ち上がらなかった。赤いカーディガンの女性は一番後ろの窓際の席に座った。両手を袖の中に隠し、カーディガンの前をギュッと交差させた。冷房が効きすぎているのだろう。僕と目があった。そして、カーテンを閉めた。ドアが閉まりバスは発車した。
 視界からバスの姿が完全に消えた後で僕は立ち上がって歩き始めた。歩いて帰りたい気分だった。
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