第18話

文字数 3,217文字

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 開脚教室に行ってから1カ月が過ぎた。あの日以来、僕は講座で教えてもらったセルフワークを続けている。鏡の前に立って目を閉じる―運よく僕の家の玄関には全身が映る姿見がある―。両腕を肩の高さに水平に伸ばす。目を開けて、正確に肩の高さに水平に伸ばせているかを確認する。ズレがあれば修正して身体に覚え込ませる。それを何度か繰り返す。次に、四つ這いの姿勢で背中を丸めたり反ったりする。腰背部の筋肉が緊張しないように注意する。これも何度か繰り返す。それから、壁に背骨を上から順番に付けていき背骨の感覚を鍛えていく。
 一ヶ月が経つが感覚が研ぎ澄まされる実感は全くない。腕を水平に伸ばすことに関しては初めのころに比べるとズレは少なくなってきたが、依然、背骨は一個ずつがバラバラには動いてくれない。特に胸椎の上部と腰椎全部がセメダインで固められたかのように動かない。胸椎と腰椎という言葉も覚えた。
 このワークを行うようになってから時々不思議な感覚を経験するようになった。過去の記憶がその当時の匂いを伴って甦ってくるのだ。友達にゲームを貸して返って来なかったこととか、知らない間に教科書に落書きをされていたこととか、そんなとるに足らない出来事がふと思い出される。ゲームセンターのミニユーフォーキャッチャーでちょっとした衝撃によって景品のお菓子が落ちてくるみたいに、何でもないような過去の記憶がストンと出口に落ちてくる。背骨は記憶の貯蔵庫なのかもしれない。
 このワークを行い始めてからランニングをする回数が減った。それまでは週に3回走っていたのが2~3回になり、試験期間に入ると1~2回になり、今は0~1回になった。
 夕方、陽が落ちて少し涼しくなってからランニングに出た。意識的に走りに出ないと、全く走らなくなってしまう。
昨日のことを思い返す。竹内鈴は「知ったことを知らない振りはできない」と言った。その言葉には確かな力強さがあった。一方僕は知ったことを知らない振りをした。竹内さんに娘の家庭教師を頼まれて自宅に行った。家庭教師は娘が望んだことであり、娘には話を通してあると竹内さんは言った。しかし実際には、娘はそれを望んでおらずまた何も聞かされていなかった。僕は何事も起こらなかったことにするためにその場を立ち去り、急用で行けなくなったと竹内さんにメールをした。嘘をついた。嘘に嘘で答えてしまった。その後、鈴ちゃんから一度会って話がしたいと連絡が来た。「何もなかったと言われてもはいそうですかとはならない、知ったことを知らない振りはできない、無下に扱われているようで嫌だ」と僕に言った。正直なのは鈴ちゃん唯一人じゃないか。家庭教師を引き受けるかどうかは別としても、いや、引き受けると決めたからには起こった出来事については正直に竹内さんと話をするべきだったのだ。
 鈴ちゃんは母親とはほとんど話をしていないと言った。話をしないといけないとは思うのだけれど上手く説明ができない、母親の方もどう話を切り出したらいいのかわからないのではないかとその気持ちを推し測るようにうつむいて漏らした。そのうつむきに僕はいつかスティービーとの間に生じた沈黙を思い出さずにはいられなかった。この世から音という音が消え去ってしまったのではないかと思えるほどの沈黙が竹内母娘の間にあるのかもしれない。
 そう考えると、僕はどうしても竹内さんを非難することができない。竹内さんが嘘をついたこと及び僕がそれに嘘をつき返したことを正当化したいわけではない。嘘は嘘だ。よくないことだ。でも竹内さんにはそうする必要があったのではないか。
 父親は何と言っているのだろうか?そういえば、父親のことは何も聞いていない。僕は勝手に竹内さんと鈴ちゃんと僕の三人の関係性で話を考えてきたけど、他の家族については考えが及んでいなかった。父親のことは何一つ聞いていない。兄弟姉妹はいるのだろうか。そうだ、父親は何と言っているのだろうか?
 夏場でも夕方の時間帯になるとランニングをしている人がちらほらといる。仕事終わりと思しき4、50代の男性が多い。おそらく彼らには子供がいるのだろう。娘だろうか、息子だろうか。子をもつ父の気持ちとはどんなものなのだろう。
 僕は公園に入って自動販売機でスポーツドリンクを買い、東屋のベンチに腰掛けた。そこにはおじさんがいた。開脚教室が行われた会場のロビーにいたあの清掃員のおじさんが。あの時と同じようにゴミ箱に手を入れている。
「こんなとこで何やってるんですか?」
「おお、あんたか。久しぶりじゃの」とおじさんは手をゴミ箱に入れたまま顔だけ僕の方に振り向いて言った。
「久しぶりですけど、久しぶりとかじゃなくて」
「なくて?…」手を止めて僕をじっと見つめる。
「その、とにかく何やってるんですか?」
「見ての通り」
「ここでも清掃してるんですか?」
 おじさんはあの時と同じ清掃員の作業着を着ている。違いと言えば、屋外だからなのか、青色の帽子をかぶっている。
「プライベート」
「プライベート?プライベートで清掃してるんですか?」
「だから清掃じゃない」
 狐につままれるとは今の状況のことを言うのかもしれない。
「この辺に住んでるんですか?」
「そんなことはどうでもいい」
 たしかにどうでもいい。何でそんなことを訊いたのだろうか。
おじさんはゴミ箱から手を出してさっさっと両手を打ち合わせて払い「小説を探しておる」と言った。
「小説を探しておる」と僕は反復した。もう一度、今度は声に出さずに反復した。声に出して呟いても心の中で呟いても大差はなかった、意味が分からない。
「右手に小説、左手に缶ビール。酔った勢いで間違えて右手をゴミ箱に突っ込んだ、とか?」
「それはおもしろい」とおじさんは大声をあげて笑った。
「そういうことでいい」
「そういうことでいいってことはそういうことじゃないってことですよね?」
 おじさんは何も言わずに数度頷いた。
「だが、なかった。だからわしはもう行く。じゃあな」と言って引き留める間もなくおじさんは去っていった。
 小説を探しておるという言葉だけがその場に影のように残された。僕はゴミ箱を覗き込んだ。そこには小説らしきものはなく、缶、瓶、ペットボトルが捨てられているだけだった。
それにしてもおじさんの態度はどことなくよそよそしかった。言葉も冷ややかだった。以前会った時のような落ち着きがまるでない。あんなに有無を言わせず立ち去らなくてもいいのに。だいたい、なぜこんなところにいるのか本当に分からない。
 ベンチに座って小説を探すことについて考えてみた。小説を探したいのなら本屋か図書館に行けばいい。ゴミ箱の中を探すということは小説を捨てたのだろうか?借りたものは捨てないだろうし、買ったものでも公園のゴミ箱にはまず処分しないだろう。家で処分すればいい。家で処分したものが回り回ってここに流れつくこともない。借りたものでも買ったものでもない小説。おじさんが書いた?まさか。仮にそうだとしても、自分で書いて自分で捨ててそれを探すことにどんな意味があるのだろうか。誰かに捨てられたのか。だから探している?でも自分で書いたのならデータとして保管してあるのではないだろうか、たとえば、USBとかに。わざわざゴミ箱をあさらなくてもパソコンを開けばそこにある。しかしおじさんがパソコンを持っているとは限らない。データ化できない昔に紙に書いたものという可能性もある。だとしたらなおさらそんなもの見つかるわけがない。そこまで考えて、一体自分は何を考えているのだろうかと我に返った。最近考えることが多すぎる。それもよく分からないことについて。
 辺りはオレンジ色に染まり、夜の暗さがもうすぐそこまで来ていた。僕はスポーツドリンクを飲みほしてゴミ箱に捨て、公園を後にした。ゴミ箱に捨てる。ん?もしかして、思い出?
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