第5話

文字数 2,361文字


開脚教室に行くとスティービーが言ったのはゴールデンウィークのことだった。
「今度開脚教室に行くんだけど、一緒に行かないか?」珍しく彼は僕を学校の地下パーラーに呼び出してそう切り出した。僕たちはテーブルに向かい合わせに座った。
「開脚教室?」そう訊き返す僕の声は大きく、周りにいた学生―その多くは女子学生だった―に睨まれた。
 スティービーはよく予期していないことを投げかけてくる。それは僕を戸惑わせたが、間違いなく彼の魅力だった。
「そう、開脚教室」スティービーは至って冷静に答えた。
「何でまた急に?」僕は声を小さくして訊いた。
「急ではない。色々と調べたんだ。鼠徑部だよ、鼠徑部」
「鼠徑部?」
 スティービーは両手を自分の脚の付け根に当てた。
「ジェラードは鼠徑部を怪我したんだ。それから前に前に進む推進力を失った。鼠徑部と言えば開脚に直接関わる箇所だろ」
 僕はテーブルに肘をついて、そのことについて考えた。たしかにジェラードは鼠徑部を痛めた。その治療のために休養をとってもいる。
「それで鼠徑部に関する何かしらの情報を得てジェラードが前を向かなくなった理由にたどりつけるかもしれないと?」
「うん。だから一緒に行かないか?一人だとどうも心細いから」スティービーは少し前のめりになって言った。
「嫌だよ」僕はテーブルから肘を放し、背もたれに背中を預けて言った。
「どうして?」
「どうしてって、なんとなく」
「僕もなおも体が硬い。ジェラードのことは別として、行って損はないと思うけど。体が柔らかいことに越したことはないだろ」
「体が柔らかいことに越したことはない」とスティービーの言葉を反復してみた。その通りだと思った。体が柔らかいことに越したことはない。と同時に体が硬いことによる不都合を考えてみた。
「それはそうだろうけど、俺はもう運動をしてないし…」
「走ってるじゃないか。走るにしたって絶対に柔らかい方が良いに決まってる」
「…」
「もう少し日があるから、考えておいてくれ」

 結局、僕はスティービーと一緒には行かなかった。たしかにスティービーの言うように行かない理由はなかったが、どうしても気が向かなかった。体を柔らかくしたい思いはあるのだが、ストレッチはもともと好きではないし、部活動に励んでいた頃を思い返してみても運動神経の良さと体の柔らかさが相関しているとは思えなかった。身体が硬くてもスポーツが得意な人を何人も見てきた。それに、カントがそんなことはするなと言っている。僕は家で『細雪』を読んだ。

 スティービーが開脚教室に行った後、僕たちはまた地下パーラーで話をした。地下パーラーはいつだって女子学生で満たされていた。男子禁制ではないかと思える程、そこには女子学生しかいないのだ。
「身体が軽い、いい意味でね。何でもできそうな気がするよ」とスティービーは嬉しそうに話をした。
「それはよかった」
「自分の身体にこんな可能性があったなんて、今まで何をやっていたんだと思うよ」
 彼の表情を見ると心から本当にそう思っているようだった。声も一段と明るかった。それほど嬉しそうな彼を見たのは初めてだった。
「ジェラードに関してはどう?」と僕は訊いた。
「きっとこれだよ。やっぱり鼠徑部の問題だったんだよ。鼠徑部の怪我が彼の思考と行動に悪影響を及ぼしていたんだよ」
「身体的損傷が前を向くという精神を阻害していた?」
「それしかないよ」テーブルに肘をついて左手の人差し指で顎を支えて頷きながら言った。
「ジェラードも開脚教室に行けばいい?」
「ああ。それで元の彼に戻れる。そして君もね。一緒に来ればよかったのに」
 これだけ上機嫌な彼を見ていると僕も行けばよかったと思った。
「二ヶ月後にまたあるみたいだから今度こそ
一緒に行かないか」
「考えておくよ」と僕は答えた。
「なおの考えておくは行かないだからな」と言ってスティービーは微笑んだ。
 それから数日後、二ヶ月後の教室に二人分の申し込みをしたという連絡がスティービーからあった。一度でも講座に参加した者には先行申し込みの案内が届く仕組みになっているらしい。講座代は僕が出すから交通費だけ自費で頼む、また連絡する。
 開脚教室に少し興味を持ち始め、講座代も持ってくれるということだったので、まあいいかと前向きに考えていた。しかし、以後、スティービーからの連絡はなかった。そして彼は姿を消した。連絡も全くつかなくなった。フットサル部の人に訊くと、彼らも何も事情を知らず、むしろ僕が彼のことを知っているのではないかと思っていたという。上機嫌だっただけになぜそうなったのか心配せずにはいられなかったが、そのうち連絡があるだろうとあまり深刻には考えていなかった。
 6月の中旬に連絡があった。しかしそれはスティービーからではなく、開脚教室の講師からきた講座の詳細を知らせる連絡だった。その連絡があるまで僕は僕が教室に申し込まれていたことをすっかり忘れていた。講座代金の事前の入金が確認されましたので詳細をお知らせいたします、と。もちろん僕自身は入金していない。スティービーがしたのだろう。ということは、少なくとも彼は生きている。それが分かっただけでひとまず安心だった。
 日時、会場、動きやすい服装、といった簡単な必要事項が記されていただけの簡素な案内だった。メールの最後には小川様の未来が明るいものでありますようにと書かれていた。
 案内を受け取った後にもう一度スティービーに連絡をしてみたがやはりだめだった。彼のアルバイト先の塾に行ってみたが、そこでも何の連絡も入っていないという。勤務態度は真面目で無断欠勤どころか遅刻一つもしたことがないのにどうしたのだろうと、塾の先生方も非常に困惑した様子だった。彼は誰にも何も告げずに姿を消したのだ。
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