第39話

文字数 2,166文字

39
 毎日大学に通い、ドラッグストアでバイトをし、週に一度の家庭教師をして10月が過ぎた。ただの大学生のただの一カ月だった。
スティービーには会っていない。連絡もしていない。
 何度かゴミ箱の声を聴いた。何をやっているんだろうと思った。スティービーとは会えた。それが彼の声だとして、それを聴くことに何の意味があると言うのか。もはや何の手掛かりでもない。彼の声でないのなら、なおさら何のために聴いているのか。訳の分からないまま僕は声を聴き続けた。
 例えばこんな声があった。
 
怖い夢を見た後に幸せな夢を見た話

 ピンポンとインターホンが鳴った。そのすぐ後に「回覧板です」という少女の地声がインターホンを通さずに聞こえてきた。
「あんた出て」と母親が僕に言った。
 足を伸ばして寝転がっていた僕は深い溜息と素粒子ほどの小さな舌打ちと共に重い体を起こした。
 リビングと廊下を隔てるドアに差し掛かった時、突然玄関のドアが開いて男が家の中に闖入してきた。男はスピードを緩めることなくトイレにまっしぐらに駆け込みドアを閉めた。はっきりとは見えなかったが、中学生くらいの少年だった。
中学生の少年?
 ところで僕は何歳なのだろうか?まぁそれはいい。それどころではない。
 僕は反射的にリビングと廊下を隔てるドアを閉めて少年とはち合わせないようにした。一体何が起こっているんだ?僕の心臓はキツツキが木にくちばしを打ち付けるその速さのごとく猛スピードで鼓動している。ドアのかぎを掛けようにも手が震えて上手く動かせない。
 数十秒後、意を決して僕はドアを開けた。その瞬間、僕の動きとシンクロするようにトイレのドアが開いて少年が飛び出してきた。
 少年は手にカッターナイフを持っている。その刃先を自分の手首に当てる。僕はあわてて少年に飛びかかりカッターナイフを少年の手から振り落とした。
 すると、少年はカッターナイフを拾い上げ、今度は僕に向かって切りかかろうと突っ込んできた。
 そこで僕は目を覚ました。気が動転していて背中には冷や汗をかいている。部屋は真っ暗だ。視線の先に黒い靄が見える。それは次第に明確な輪郭を描き出し、ついに太ったセキセイインコくらいの大きさのカラスが現れた。
カラス?
 僕の方に近づいてくる。僕はタオルケットを蹴り飛ばして布団から起き上がり、そのままの足で台所に向かった。冷蔵庫から炭酸水を取り出して飲み、一息つく。時計を見ると午前4時38分だった。
 カラスを見たのは初めてだったが、何が見えるかは問題ではない。本来いるはずのないものが見えること自体が異常なのだ。
 部屋に戻って布団に横になる。巾着袋の持ち紐をギュッと引っ張ったみたいに後頭部の中で何かが絡まっている。僕は頭を振ってそれを解きほぐそうと試みる。
 暗闇に目が慣れて来たとき、カラスのいた場所に回転椅子のキャスターが姿を現した。なるほど、この世の中は表象と現象。いやいや、なるほどで納得できる事象ではない。怖かったんですよ、ほんとに。

 僕は黒板の前に立って誰かが何かを書いているのを見ている。周りには他の生徒も密集している。だから、僕は何歳で何をしているのだろうか?
 ふと右を見ると、とてもきれいな顔の女の子がいる。マスクをかけるとすっぽりと埋まってしまいそうなほど顔が小さい。どこかで見たことのある顔だ。アイドルの○○ちゃんじゃないか。そっくりさんか?いや、そうじゃない、本人だ。仮にそっくりさんだとしても、本人ということでいいじゃないですか、何せ怖い夢を見たあとなんですから。
 彼女の顔は僕の頭より一つ分高い所にある。彼女はそんなに背が高いのだろうか。それとも僕が小さいのだろうか。
 ところで彼女はピンク色の浴衣を着ている。
浴衣?
 夢とは、どうしてこうも断片的で関係性に脈絡が欠けていてちぐはぐなのだろうか。
 彼女は僕の目の前に移動してきて、その背中を僕にあずけた。僕は彼女の腰から前方に腕を回し、彼女の重みをずっしりと感じながらその身体を受け止める。
「あーあウニパスタ食べたかったなぁ」と彼女は言った
「うん」と僕は返事をした
 その後も何か話を続けるのだが、一向に何を言っているのかが聴きとれない。でも、その聞きとれなさが心地よい。聞きとろうとする必要性も感じない。 
 ただ二人の空間があり、緩やかな時間が流れている。時折振り返る顔が可愛い。僕の心音も乱れることなく平静を保っている。そもそも心臓なんて存在していないかのようですらある。そうだ、この世は表象と現象だったんだっけ。
 これは夢なんだろうなとよぎったところで目が覚めた。午前8時24分。視線の先には一枚の黒い羽根が落ちている。

「僕はもうじき死ぬのかな」
「あるいはね」とその羽は言った。


 この声は実は自分の深層心理なのではないかと疑ったこともある。でもそれは馬鹿馬鹿しい考えだった。自ら疑って表に出てくるような声を深層心理とは言えない。やはり、この声はあくまで誰かの思い出なのだ。
 僕は誰かの思い出を覗き見ている。そういうことなのだ。そんなことをして何になる。もう止めるべきなのかもしれない。それでももしこれがスティービーの声であるのならば、彼はこの声に何を託しているのだろうか。そして僕は、この声をどう受け止めればいいのだろうか。
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