第8話

文字数 3,396文字


 講座の参加者全員で会場近くの中華料理店で昼食をとることになった。四人がけのテーブル二つを陣取り、二人ずつが向かい合う形で座った。僕の隣に森川さんが、向かいに講師の吉田先生と遅れて参加した女性が座った。隣のテーブルに高橋さん、田所さん、田代さん、相川さんが座った。それぞれが食べたいものを各自で注文した。先生と隣の女性は汁なし坦々麺を、森川さんは麻婆豆腐を、僕は四川チャーハンを頼んだ。
「先生の講座に男の人が参加するのは珍しいのですか」と僕は気になっていたことを質問してみた。
「そうですね、女性限定にしてるわけではないけどあまり来ないかな」と講座の時とは違って砕けた言葉遣いだった。
「女性の人たちからすると講師が女であるのは来やすいみたいだけど、男の人からすると参加しづらいんじゃないかな、どう?」
「どうですかね、僕は女の人に囲まれて育ったんでそこまでの抵抗はないかもしれません。もちろん緊張はしますけど」
「あれ何だったんですか、『自殺論』がなんとかっていうやつ」と森川さんが思い出したように訊いた。僕は急激に恥ずかしくなった。頬が温かくなった。
「いや、あれは無意識に…」
 先生の隣の女性が何の事かと訊いた。森川さんが一連の事情を説明した。
「頭の中にひっかかっていたことが咄嗟に外に出たんだと思います」と僕は言った。
「『自殺論』ってあの分厚い本のこと?」とその女性が言った。僕は驚いてそうですと答えた。まさか知ってる人がいるなんて思わなかった。
「知ってるんですか?」
「娘が読んでるのを見たことがあります。私は気味が悪くて読もうとは思いませんでしたけど」
 社会学の先生が忠告したことは正しかったようだ。
「どんな本なんですか?」と森川さんが興味深そうに訊いた。
「デュルケムという社会学者が書いた本です。文字通り自殺を取り扱った本なんですけど…」と言ってから、面倒くさい奴と思われていないだろうかと思い、三人の顔を見た。三人とも続きを聞きたがっているようだった。僕は続けた。「ある国のある一定期間における自殺者の率はおおかた同じ数で、これを不変性と言います。変わらずの不変です。例えば日本で一年間に自殺をする人が100人いるとします。それが毎年だいたい変わらない。一方で、ある一定期間の国ごとに見た自殺者数は異なっていて、これを可変性といいます。日本では大体100人だけど、アメリカでは200人だし、韓国では50人だったりする。例えばですからね。こんな風に、自殺において、可変性と不変性が同時に存在している。ということはある社会に固有の自殺と関係する何か要因があるのではないか、それを研究しようと試みた…って感じですかね」と僕は説明した。
「何か難しいですね」と森川さんが言って、「そんなのを娘は読んでいたのか」と女性は呟いた。
「ざっくり言うと『それって本当のことを言ってるの?ちゃんと調べようよ』ということを自殺を題材にして考察する、といった感じですかね」と補足した。
「さっき先生が言ってた学の話みたいですね」と森川さんが言った。その言葉を聞いた吉田先生は感心したように頷いた。
「これは社会学という学問の教科書と言われている本なんです」と僕は言った。
 声こそ聞こえなかったが三人の顔から社会学?という吹き出しが出ていた。
「個人の外部にある客観的な実在を対象にした科学」といかにも暗記して覚えたフレーズを吐き出したが自分でも何を言っているのかよくわからなかった。
「私はその本のことは知らないけど、森川さんが言ってくれたみたいに私の考え方と似たようなことを言ってるみたい。要するにそれっぽいことで済ませてはいけないってことでしょ?大切なことは思い込みじゃなくて真実です」
 それから何か思い出したように先生は「そう言えば」と言った。
「そういえば、前にも似たようなことを言った人がいたな」
「似たようなこと?」と僕と森川さんが口をそろえた。
「ええ、以前の講座で今日と同じように参加者に夢を訊いた時。たしか『僕は僕のツァラトゥストラを書くことです』って」
 一瞬でそれがスティービーであると僕は直感した。そんな予想もつかないようなことを言うのは彼しかいない。
「そうでしたよね?竹内さん」と先生は隣の女性に確認した。竹内という名前のようだ。竹内さんも思い出したようで、あっと口が大きく開いた。
「はいはい、いましたね。若い男の人ですよね。えーと」と言って僕の顔を見つめた。僕の名前を知りたがっているようだ。
「小川です」と僕は名乗った。
「小川さんと同じくらいの年の人」
「五月のことじゃないですか?」と僕は訊いてみた。
「そうそう確か五月だった。どうしてわかるの?」
「それはたぶん僕の友達です。僕は彼からこの教室を紹介してもらったんです。いかにも彼が言いそうなことだったので」。その後に彼はいなくなりましたとはやはり言えなかった。
「そうだったんだ。何か言ってた?講座の感想とか」
「何でもできそうな気がするって上機嫌でしたよ」
「それは良かった。今日も一緒に来ればよかったのに」
 心臓の鼓動が速くなった。そのつもりだったのだ。でも彼はいなくなった。
 料理が運ばれてきた。隣のテーブルでも話が弾んでいた。子供の同級生の話をしているようだった。部活動推薦で入学した子が部活動を辞めるのはいかがなものかという内容。その子は中学生の時に高校側が開いた部活体験会に参加した。体験会と言うのは名ばかりで部活動の顧問がスカウトしたい生徒を選ぶためのセレクションに他ならない。どこの高校も同じことをやっている。顧問はその子のことが気に入り声をかけその子も受け入れたが、後に他の高校の誘いを選択し先の推薦を辞退した。しかし、どうしてもと彼を説得して結局は推薦を受けることになった。そして入学後に部活を辞めた。いかがなものか。スポーツ推薦という制度自体なくしてしまえばいいと僕はチャーハンを食べながら思った。森川さんは涼しい顔で辛い麻婆豆腐を食べている。
「それで、『ツァラトゥストラ』って何か知らなかったからあの後調べたらニーチェが書いたものみたいね」と吉田が言った。
 森川さんも竹内さんも吉田の言葉には何の反応も示さずに食べ続けている。どうやら僕に向けて発せられた言葉らしい。僕は米を口に入れたまま頷いた。
「娘さん読んでました?」と先生は竹内さんに冗談半分で訊いた。
「それは知らないです」
「それなら私読んだことありますよ」と森川さんが言った。「途中で読むのやめちゃいましたけど。何言ってるか分かんなくて」
「小川さんは読んだことあるんですか」と竹内さんが訊いた。
「あります」と返事をしてから、その内容について思い起こしてみた。少し間を空けて「でもどんな話って言えばいいのか上手く説明できません」と言った。どんな話だったか細部は覚えていないが、僕が読んで理解した限りでは、穴蔵から外の世界に出たツァラトゥストラは最終的には再び穴蔵に帰る。それをスティービーに重ね合わせると、口に出して言ってしまうことで本当にそうなってしまうのではないかと怖くなり口に出して説明することができなかった。スティービーは「僕なりのツァラトゥストラを書く」と口にした。そう発言したのがスティービーであるという確証はないが確信はある。そんなことをスティービーが考えていたなんて全く知らなかった。

スティービー、お前は一体どこで何をしているんだ。

「そんなに真剣に考えなくてもいいですよ」と吉田が言った。「分からないものは分からないですから」
「あの時も、静まり返った」と吉田はあの時を懐古して言った。
「すみません」と僕は謝った。「その後にお金持ちになりたいとかなんかバカみたいなことを言っちゃいました」
「でも先生は、それは悪いことではないって言いましたよね」と森川さんが紙ナプキンで口元を拭きながら訊いた。
「ええ、悪いことではありません。むしろお金は必要です。お金があれば心の余裕も出てきます。これもブロックがかかっているんです。お金儲けはいけないあさましいことだというブロックが。制限です。その制限が心を締め付けて身体の動きを鈍らせる」
「いろんな制限がかかっているんですね」と竹内さんが言った。
 食べ終えたお皿を下げにウェイトレスの女性がやってきた。名札には超と書かれていた。
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