第15話

文字数 4,269文字

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 八幡西区にある竹内宅は瀟洒とまではいかないが経済的裕福さがうかがえる立派な一軒家だった。坂道沿いに住宅が立ち並ぶ「樫の木坂」という名前のついたエリアの一画に竹内宅はあった。エリアの中には遊具の充実した広い公園があり、南北に500メートルほど伸びた坂の一方にはコンビニ・スーパー・薬局があり、もう一方にはクリニック・本屋・飲食店がある。歩いて十分以内の所に小中学校もある。そのエリアだけで一つの街として完結していた。その中にいる僕は完全によそ者だった。
 呼び鈴を押したが反応がない。もう一度押してみるがやはり反応がない。竹内さん本人は仕事で家にいることができないが娘には話を通してあるということだった。
 呼び鈴のついた門から一歩下がり頭上を見上げると、二階の一室の窓が開け放されてカーテンが揺れているのが見える。再びベルを押してみるが無反応だった。竹内さんに電話をしてみたがつながらない。もう一度押してみた。
「うるさいな」
 二階の開け放たれた窓から少女の顔が突き出して言った。僕は目が悪く、顔の細部まではよく見えない。
「うるさいな。出ないってことは誰もいないってことなの。何回も何回も鳴らさないで」
 理解が追いつかず、僕はただ黙ってその少女を見上げていた。
「玄関にちゃんと貼ってあるでしょ、セールスお断りって」
 セールス?僕はまだ言葉が出ない。
「黙ってないで何か言ってくれない。だいたいなんで私服でセールスなんかやってんの」
 うるさいと言われたかと思ったら黙ってないで何とか言えと怒られる。僕はジーパンにTシャツという格好だ。もちろんセールスに来たわけではないからだ。
「あの、家庭教師で来たんですけど」と大きな声でその少女に向かって言った。
「家庭教師?そんなの頼んだ覚えないですけど」
 話が違う、と僕は思った。しかし少女はとぼけているようには見えない。
「ここ、竹内さんのお宅で間違いないですよね?」と僕は表札を確認してから訊いた。
「そうですけど」
「竹内さん、えーと、あなたのお母さんに娘の家庭教師をしてくれとお願いされてきました」
 今度は少女の方が状況をつかめていない様子で、何も言わずに僕を見下ろしている。
「とりあえず玄関まで出て来てくれない?こうして話すのは近所迷惑だし。家に入れてくれなくていいから」
 少女は何も言わず顔を窓の内側に引っ込めた。僕は一つ大きなため息をついた。階段を下りてくる足音がかすかに聞こえ、玄関のドアが開いて少女が顔だけをのぞかせた。チェーンをつけたままだ。かわいらしい女の子だ。どこかで会ったことのあるような顔立ちをしている。
「そのままでいいから話を聞いて」と僕は声をかけた。
 少女は怪しいものを見る目で僕を警戒している。何も知らないのなら当然の反応だ。
「今日僕がここに来ることは知らなかった?」
「なにも。家庭教師なんて聞いてない」
「僕はあなたのお母さんから家庭教師をやってほしいと頼まれた。娘がそれを望んでいるからって」
「私はそんなの頼んでない。家庭教師をしてほしいなんて一言も言ってない」
 表情からも声の調子からもやはり嘘をついているようには見えない。この子は本当に何も知らないようだ。ケータイの画面に竹内さんの電話番号を表示してこれはあなたの母親の番号で間違いないかと確認すると、間違いないと少女は言った。竹内さんと僕の目の前にいるこの少女は親子で間違いない。この子は竹内さんの娘で、竹内さんはこの子の母親だ。
「私のお母さんがあなたに言ったの?私が家庭教師を求めているって」
「そう聞いた」
 少女はふーんと言った。
「それで住所を教えてもらって今日ここに来た。話は通してあるって。でも、君は何も知らないって言ってる。僕は何が起こっているのかよくわからない」
「私だって分からない」
 しばし沈黙があった。それはとても正当な沈黙であるように思えた。背後の坂道を車が通る音がした。
「今家には誰もいない?」
「うん。私一人だけ」
「お母さんに電話でもして確認してくれない?」
「いやだ」
 沈黙。正当ではない沈黙。
「何で私がそんなことしなきゃいけないの」
それはそうだ。自分の知らないところで勝手に話が進められて、知らない人が急に現れて母親に確認の電話をしてくれと促すのは嫌に決まっている。僕はごめんと謝った。
「今日はもう帰る。僕からお母さんに連絡をするから君は何も気にしなくていい。今日僕はここに来なかった。だから君もこんな話があったことも知らない。迷惑をかけてごめん」
 僕は踵を返して竹内邸を後にした。少しして振り返ると玄関のドアは閉められていた。
コンビニのある方へと樫の木坂を歩いた。微糖の缶コーヒーを買ってイートインスペースの椅子に腰を下ろした。
 一体何が起きたのだろう?僕は竹内さんに娘の家庭教師をしてほしいと頼まれた。娘が家庭教師を望んでいるからと。返答に数日の猶予をもらい、引き受けると竹内さんに連絡をし、住所を教えてもらい今日ここに来た。私は仕事で家にいることができないが、娘には話を通してあるからと彼女は言った。しかし、娘は僕が今日ここに来ることを知らなかった。おろか、そもそも家庭教師を望んですらいなかった。望んでいないかどうかは定かではないが、少なくとも娘の方から母親に対して家庭教師をつけてほしいとは一言も言っていない。彼女の様子からそれは本当のことであるように思える。見解が食い違うという次元の話ではない。竹内さんが嘘をついているということになるのだろう。娘が望んでいないことを望んでいることにして僕に家庭教師を要請した。娘には話を通してあると言ったが、娘は何も聞いていなかった。娘の意向に関わりなく竹内さんが娘に家庭教師をつけさせたかったのならそう言ってくれればよかったし、一方的にであれ家庭教師を呼んだからと娘に話をしておくこともできたはずだ。しかし、現実は、娘が家庭教師を望んでいる、娘には話を通してある、というのは真実ではない。娘は何一つ知らなかった。
 一体どういうことだろう。
僕が竹内さん宅を訪れれば一瞬で明らかになる身も蓋もない話だ。
缶コーヒーを飲みほし、缶の真ん中を親指と人差し指で軽くつぶした。プルトップの穴に左手の人差し指を出し入れしていると、プルトップが外れた。
 ケータイを取り出して竹内さんの番号を開く。発信ボタンを押す寸前で手を止めた。どう話をしたらいいのかわからない。ケータイをしまい、缶をゴミ箱に捨ててコンビニを出た。
 
家に帰りついてから、メールを打つことにした。すみません、今日は急用で学校に行かなければならないようになりました。そのため今日は家庭教師に伺うことができません。当日の連絡で申し訳ありません。娘さんにはそのようにお伝えください。また連絡します。

 娘にはきっと連絡をしないだろう。そもそも何も話をしていないのだから。しかしこれでよかったのだろうか。また連絡をしますではなく、やはりお断りさせて下さいとはっきりと宣言すべきではなかっただろうか。あるいは、今日お宅に伺ったこと、娘と話をしたこと、それらすべてを正直に伝えて真相を確かめるべきではないのか。
 畳んだ布団に頭を乗せて床に仰向けになり、天井を眺めながら少女のことを考えた。母親と仲が悪いのだろう。まずそれが頭に浮かんだ。唐橋さんが言っていたように色々と難しい時期なのかもしれない。少々口は悪かったがとてもかわいい女の子だった。久しぶりにあんなストレートな「いやだ」を耳にした。
今頃何をしているのだろうか?窓が開け放されたあの部屋に戻って窓の外でも眺めているのだろうか。それとも母親に電話をして問い詰めているだろうか。それはないだろう。なにせあの「いやだ」だったから。
 ケータイが鳴った。竹内さんからかかって来たと思うと急に緊張してきて心臓の鼓動が速くなった。何をどう話せばいいだろう?僕は起き上がり、呼吸を整えてからケータイを手に取った。飛鳥からだった。
「驚かさないでくれ」と少々語気を強めて僕は電話に出た。
「それが久々に話す妹のような存在にかける言葉?」と飛鳥は言った。
「ごめん。こっちからもかけようと思ってたところ」
「なおの思ってたは、思ってたままで終わるからあてにならない」
「同じことを誰かからも言われたような気がする。元気にしてる?」
「うん」
「東京はどう?」
「とにかく人が多い。渋谷なんかに行くといまだに人の多さにびっくりする。何か別の世界に来てしまったみたいな。まあでも楽しいよ、東京は」
「そっか、それはよかった。ベトナム語をやってるんだってね?」
「ベトナム語?」ベトナム語で話しかけられた日本人が見せる戸惑いの表情がそのまま言葉になったような声だった。
「大学でベトナム語を学んでるんでしょ?」
「ベトナムじゃないよ、インドネシア語だよ」
「インドネシア語?」
「そう」
「ゆみ姉が言ってたよ。飛鳥はベトナム語をやってるって」
「ううん、インドネシア語。ゆみ姉にもちゃんとそう言ったよ」
「アルファベットじゃない言語をやりたいからベトナム語にしたって」
「文字がアルファベットで分かりやすいからインドネシア語にしたんだけど」
「おたくのお姉さんはどうなってんの?」
「それは昔からなおも知ってることでしょ。今に始まったことじゃない」
 僕はケータイを耳にあてたまま頷いた。たしかに今に始まったことじゃない。
「ゆみ姉に会ったの?」と飛鳥は訊いた。
「七夕の日に、喫茶店でね」
「かなちゃんとこに行った後?」
 飛鳥は若菜のことをかなちゃんと呼ぶ。
「そう」
「かなちゃん何て言ってた?早く彼女作れって言ってたでしょ」と笑いながら言った。
「そうかもしれない」
 少し間が空いた。
「そうそうそれでね、そのことで電話をしたんだけど」
「そのこと?若菜のこと?」
「違うよ、インドネシア語のこと」
「インドネシア語のことで?」
「こんど博多でインドネシア語の検定試験があってそれに合わせて帰省するから、その時ご飯でも行こうよ。おごって」
「あのね、大学生はお金がないから大学生なの。お金をもっているならそれはもう大学生じゃない」
「でもなおは授業料免除じゃん。それにバイトくらいしてるでしょ。それにどうせ暇でしょ」
「あのね」
「いいから。連れて行ってね。楽しみにしてるから。また連絡する」
 電話が切れた。飛鳥が一方的に切った。久しぶりに飛鳥の声を聞いて少し元気が出た。そうだ、あの少女は飛鳥に似ているんだ。だから初めて会った気がしなかったのだ。
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