第36話

文字数 3,139文字

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10月に入り、後期の授業が始まった。夏休みは長いようであっという間に終わった。夏休みは終わったというのに相変わらず暑い。相変わらず暑い中で、授業のスケジュールは相変わらずタイトに組まれている。仕方がない。二年生までにおおよその単位を取り終えておいた方がいい。
 鈴ちゃんの体育祭は終了し、家庭教師は再開したが、僕も大学が始まったこともあり、週に一度ということになった。場所はその時々に考えることにした。
 僕はバイトを始めた。唐橋さんがレジ打ちのバイトをしているドラッグストアで、品出しの人員が不足しているからやらないかと声をかけられ、引き受けた。
 そこに鈴ちゃんがやってきた。シャンプーを陳列している時に、「シャンプーはどこにありますか」と後ろから声をかけられ、「それならここに」と後ろを振り向くと鈴ちゃんだった。
「バイト始めたって聞いたからちゃんと働いてるか見に来た」
「で、ちゃんと働いてる?」
「家庭教師の時よりかはね」と言って鈴ちゃんは笑った。
 時刻は夜の9時過ぎで、鈴ちゃんは制服を着ていた。
「学校帰り?こんな時間にわざわざここまで来たの?」
「文化祭の準備で遅かったの」と鈴ちゃんは言った。
「ちょっと待ってて。もうすぐ終わるから」
 仕事を終え、着替えを済まし、鈴ちゃんのもとへ向かった。制服姿の鈴ちゃんを見るのは、大学館内で初めて会った日以来のことだった。
「どこかでなんか飲む?」
「ううん、もう帰る」
「じゃあ駅まで送る。ほんとにただ見に来ただけなの?」
「うん」と鈴ちゃんは言った。ふうんと僕は言った。
「文化祭って何か出し物とかするの?」
「うん、まあね」
 それ以上続きはなかった。二人で最寄りの駅まで歩いた。モノレールに乗って小倉駅に向かった。僕は入場券を買って改札を通った。電車は既にホームに停車していたが、僕たちはベンチに座った。
僕は相変わらずTシャツにジーパンだった。「さすがにこの時間になるとちょっと寒いね」と僕は言った。鈴ちゃんは「うん」と言った。思えば、僕たちが会う時、雨が降っていたことが無かったような気がする。そこに象徴的な意味はないのだけれど。
「わざわざありがとう」と僕は言った。「うん」と鈴ちゃんは言った。もう10時近くになっていた。
「じゃあ帰るね」と言って鈴ちゃんは立ち上がり、電車に乗った。僕も立ち上がり、鈴ちゃんを見送った。電車に乗った後、鈴ちゃんは窓の外を見なかった。

 その夜、若菜の夢を見た。
 僕は公園を一人で走っていた。家から公園まで軽くジョギングし、簡単な準備運動をしてから走り始めた。一周が950メートルのウォーキングコースを走る。テイラー・スウィフトの『Fearless』をシャッフルモードで設定すると、一曲目に流れたのは『Fearless』だった。
 プールを抜け、グラウンドを抜け、テニスコートを抜け、健康器具のある芝生広場前のスタート地点に戻ってきたとき、ベンチに座って絵を描いている若菜の姿を見つけた。若菜?はっきりと顔を見ることができないがその姿は間違いなく若菜だ。耳からイヤホンを外し、音楽を停止した。
「若菜?」と僕はその人が若菜であるのを確かめるように声を発した。
「ちゃんと走りなさい」と若菜は言った。
たしかに若菜の声だった。
もう一度「わかな?」と僕は声をかけた。
「何その久しぶりに会ったみたいな言い方」
若菜は絵を描きながら、僕の方を見ずにそう言った。やっぱり若菜だ。
「何やってんの?」と僕は訊いた。
「何やってんのって、絵を描いてるの。一緒に来たでしょ」
 一緒に来た?
この瞬間、僕は夢を見ていることを悟った。僕は一人でジョギングをしながらここまで来たのだ。
 でも、目を覚まさないでいることができることをも同時に悟った。そして、そうしない選択はなかった。若菜に会えたのだ。
 僕は若菜の隣に座った。
「座ってないで走りなさい」僕の方を見ずに若菜は言った。「来週試合があるんでしょ。しっかり体力つけとかないと」
「観に来る?」
「行かない」
「そう言うと思った」
「来てほしくもないでしょ」
「まあね」
僕は何も言わずに木々の葉が風に揺れるのを見ていた。それから広場一面に生えたクローバーを。葉っぱもクローバーもとても気持ちよさそうに揺れていた。若菜も何も言わずに絵を描き続けていた。若菜は描いている絵を覗きこまれることを嫌った。だから僕は絵を覗き見ることはしなかった。
「なおさ」と若菜が口を開いた。「好きな人いる?」
「そうだね」と僕は言った。
「そっか」と若菜は言った。「そっかそっか」
「若菜さ」と僕は切り出した。
「何?」
「何でもない。ただ呼んだだけ」
何でもないことはないのだけれど、本当にただ若菜の名前を呼びたかった。若菜の名前を呼んで、若菜の声を聴きたかった。
「何描いてるの?」と僕は訊いた。
「ん?逆上がりをしている少年」と若菜は答えた。僕は辺りを見回した。そんな少年がいないことは分かっていたから見回す必要なんてなかったのだけれど、逆上がりをしている少年を探して広場全体に目をやった。
「そんな少年どこにもいないけど」
「いない人を描いたって別にいいでしょ。ほら、そこに鉄棒があるけど、鉄棒だけを描いてもなんだか寂しいから」
ふーんと僕は言った。「よくお手本がなくて描けるね」
「あるに越したことはないんだけどね。じゃあ奈緒がお手本になってくれる?」
「俺が逆上がりできないの知ってるでしょ」
「そうだったそうだった」と言って若菜は笑った。知っていたくせに、と僕は思った。
「まぁ本当はできるんだけどね」
「はいはい」
「今、脚が折れてるからね」
「はいはい」
40代くらいの男性が広場にやってきて、遊具で懸垂を始めた。10回正確に同じ高さに身体を持ちあげた。すごいと思った。
「若菜髪染めた?」
「染めてないよ」
「髪切った?」
「切ってないよ」
 胸の高さまであった髪は肩にかかるくらいに短くなっていたし、色もほのかに茶色がかっている。染めているし、切っている。
「そっか」と僕は言った。「そっかそっか」
「そのロングスカート、いいね」
若菜は薄い黄色のロングスカートに白いTシャツという格好で、ベンチの上にはグレーのパーカーがきれいに畳まれて置いてあった。
「なお、熱でもあるんじゃない?」と特に心配する様子も無く言った。「なおそんなこと絶対に言わないじゃん」
「かもしれない」と答えると、若菜は小さく笑った。
「走らないの?」と若菜が言った。
「うん、いい」
「脚も折れてるもんね」
「そう。それに、一週間でつけれる体力なんてない。走るってそういうことじゃないから。来週の試合は手持ちの体力で頑張るよ」
「ふん、偉そうに」若菜は絵を描く手を止めない。逆上がりをする少年の絵を描き続けている。
「じゃあ走るってどういうことなの?」
「ないかもしれない四つ葉のクローバーを探すようなもの」僕は脚を投げ出して組み、手の甲を上にして両手をおしりの下に入れた。身体の重みをずしりと手の甲に感じた。
「奈緒ってそんな哲学的な人だったっけ?」
「いつからかね」
「私の知らない間に?」
「若菜の知らない間に」
「じゃあ生まれる前ってことね。奈緒とはずっと一緒だから」
若菜はそういうことを恥ずかしげもなくさらっと言う。そう、僕と若菜はずっと一緒だったのだ。あの日まで。
「そっか。今の俺は生まれる前の俺で、若菜の知らない間なのか」
「もう、訳分かんないこと言ってないで、いいから早く走ってきなさい」
組んでいた脚を解き、手をおしりの下から解放し、「わかった」と言って僕は立ち上がった。
「若菜」と僕は声をかけた。
「何?」とようやく若菜は顔をあげて僕を見た。それは間違いなく若菜だった。
「何?」
「何でもない。走ってくる」
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