第6話

文字数 2,753文字

二章

 指定された会場はももちパレスという複合施設の一室だった。小倉駅から新幹線で博多に向かい、地下鉄に乗り換えて藤崎駅で降りた。
 どうやら僕が一番乗りで会場に着いたようだった。教室にはまだ誰もいなかったが、教壇の横に黒いスーツケースと赤いバックパックが置かれていた。講師の物だろう。黒板には「お好きな席についてごゆっくりしてて下さい」と大きく書かれていた。
 僕は窓際の一番前の席に荷物を置いて、窓を開けて回りながら、教室の中をうろうろした。教室の後方には石膏像がいくつか置かれていた。美術の講座で使われるものだろう。左斜め下を向いて難しい顔をした像や、首と両手両足のない胴体部分だけの袈裟掛けをした像などがあった。
壁に飾られている絵を見ているときに部屋の電気がついた。僕は電気をつけていなかったことにその時初めて気がついた。40代くらいの女性二人だった。講師ではなさそうだ。おはようございますと挨拶を交わした。僕は席に着いた。もう一人女性が入って来た。先ほどの二人組よりいくつか若い。さらに二人。また女性だ。
僕は窓の外を眺めていた。青空の広がった心地のいい天気だ。雲が何かの形に見えないだろうかと思って見ていたが、何の形にも見えなかった。「昨日」という漢字の形をしてくれていたらよかったのだが。
 そんなことを考えていると初めに入ってきた二人組の一人から「あの…」と声をかけられた。僕は不意をつかれて振り向くときに机の脚で脛を打った。
「大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」と言ったが、脛を打って大丈夫なことなどあるはずがない。
「すみません、着替えをしたいので…」
「あっ、ごめんなさい」と言って僕は急いで教室を出た。なんて気が回らない男なのだろうと反省した。雲の形など見ている場合ではなかったのだ。
僕は廊下を歩いてロビーのソファに座った。右手に自動販売機がある。その横にゴミ箱がある。自動販売機から人の視線を感じた。だが誰もいない。ただ自動販売機があるだけだ。  
清掃員の方がやってきた。ゴミ箱に手を突っ込んで中に何も入っていないことを確認した後、新しいビニールをかけもう一度手を突っ込んで中を確認した。今ビニールをかけたのだからゴミが入っているはずなどないのに。
「そうとは限らんぞ」とその清掃員は言った。
「はい?」
「今ビニールをかけたのだからゴミが入ってるわけなどないだろうと思っただろ」
「聞こえてました?」
「しっかりと」とその清掃員は言った。
「声には出てなかったですよね?」
「声には出てなかった。でも聞こえていた」
「表情から読み取ったとか?」
「いいや」
「雰囲気から?」
「いいや」
「じゃあ何からですか?」
「秘密」
「秘密?」
「ああ秘密」
 まあいいや。他者が何を考えているかを推測することは特に珍しいことではない。今僕が考えていたことは読み取りやすい内容でもあった。
「で、そうとは限らないとはどういうことですか?」と僕はその清掃員に訊いた。
「ゴミなんていつどこから入ってくるのか分かったもんじゃない。ゴミ袋に入っているかもしれんし、わしが手を入れたときに入ったかもしれん」
「でも、自分が手にゴミを持ってるか持ってないかくらいは分かるでしょ。手に持ってなければ突っ込んだってゴミは入らない、持ってないんだから」
「手に持てるものだけがゴミとは限らん」
「例えば?」
「思い出」僕の目をまっすぐ見据えて言った。
 その言葉は何故か僕の身体にずしりと浸みこんできた。思い出。たしかに手に持てるものではない。
「おじさん」と呼びかけた後で、おじさんと呼んでいいのだろうかと一瞬逡巡した。「おじさんでかまわん」と清掃員のおじさんは言った。
「なんか言葉を失ってしまいました」
「思い出は重いでぇ」とおじさんは砕けた口調でダジャレを言った。おじさんに対して芽生えかけていた尊敬の念が急速に冷凍された。冷凍されたその念はこのままトラックに積まれて船に乗って海を渡り二度と日本には帰ってこなければいい。 
「人の思い出は花粉のようにいたるところでぷかぷかと浮かんでいる。それがいつ体外に排出されて誰かに付着して果てはゴミ箱に捨てられるのか、誰もそんなことには見向きもしない。捨てられてしまえばそれはもうゴミなんじゃ」
「僕の昨日における日の割合と同じ」
「なんじゃそれは?」と清掃員のおじさんは困惑の表情で訊き返した。
 この人は僕の思考の全てを見通すことができるわけではない。やはり先ほどの透視は偶然の賜物だったのだ。
「秘密」と僕は答えた。
「生意気なガキだ」と言っておじさんは笑った。
 その時、僕たち二人の真横を一人の女性が通り過ぎた。その人が通り過ぎるまで、通り過ぎたことはおろか人が歩いていたことにすら全く気がつかなかった。僕はその人の後姿をただただ見つめていた。その後ろ姿はまるで、静止したフラミンゴが平行移動しているみたいに見えた。
「何をそんなにじろじろ見ている」とおじさんが僕に言った。
「今のなんだったんでしょう。あの人が横を通った時、不思議な感じがしました。一瞬、別世界に、見渡す限り何もない草原にぽつんと投げ出されたような感じというか、上手く言い表せないんですけど、とにかく今までに感じたことのない感覚です」僕はそう言葉を発しながらも、まだ草原にいるような浮遊感があった。
「あの人はな、ここで開脚教室をしている先生だ。きれいな人だよな」
「僕は今日その開脚教室に参加するためにここに来たんです。あんな人見たことありません。横を通ったのに全く気がつかなかった。今日ここに来るのに気が乗らないでいた自分が何だか惨めに思えてきました」
「惨めに思う必要なんかない。彼女がすごいだけじゃ。そうやって思い出を捨てようとするな」
僕は苦笑した。 
「おじさん、ゴミ箱って英語でなんて言うんでしたっけ?」
「英語で?」
おじさんは腕を組んで眉間にしわを寄せてしばし考え込んだ。そして「ダストボックスとかかの」と言った。
「おじさんはキャッチャー・インフロントオブ・ザ・ダストボックスですね」と僕は言った。
「名誉か?」また僕の目を見据えて訊いた。
「きっと」
おじさんは何も言葉を返さなかった。僕もそれ以上は何も言わなかった。おじさんをキャッチャーに譬えて良かったのだろうか。しばらく二人とも黙って窓の外を見ていた。自動販売機が稼働するブーンという音が漂った。
「そろそろ教室に戻ります」と言って僕は立ち上がった。自動販売機で飲み物を買って行こうと思い財布から小銭を取り出そうとすると、「ここの自販機では買わん方が良い」とおじさんが言った。
「温冷の調節が狂っとる。下の階で買った方が良い」
 おじさんは清掃の仕事に戻り、僕は下の階の自動販売機でお茶を買って教室に戻った。
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