第7話

文字数 5,352文字


 教室に戻ると、先ほど僕の横を通り過ぎた女性が参加者たちと談笑をしていた。僕が教室に入ると笑顔でおはようございますと挨拶をした。この方が講師で間違いないようだ。
「ひとり遅れると連絡が入っています。少し早いですが始めましょう」と講師の女性は参加者全員に向けて言った。
 参加者は僕を含めて6人、僕以外は全員女性で、予想はしていたがスティービーの姿はない。遅れてくる一人もおそらく彼ではないだろう。スティービーは遅刻をするようなやつではない。             講師は点呼を取った。どうやら僕を含め全員が初めての参加らしい。そしてその中にスティービーの名はなかった。机を後ろに下げ地べたに座る格好で講座は始まった。教室の机を後ろに下げたのは高校の掃除時間以来のことだった。たぶん僕がその時間に一番近い年齢だと思う。
「みなさんはじめまして、今日講師を務めます吉田です。よろしくお願いします」
 身長は160センチあるかないかくらいだが大きく見える。身体の中心に一本軸が通り地に足がついているようで、ふわふわした感じがない。髪は肩にかかる長さのボブで表情はとても柔和でとにかく物腰が柔らかい。きれいな人だ。最初の挨拶で「務めさせて頂く」という言葉遣いをしなかったことに僕は好感を抱いた。
吉田は参加者それぞれに今日ここに来た動機を訊いた。多くは身体が柔らかくなりたいからと答えた。友達があなたの講座に参加した後で行方が分からなくなったから何が起こったのかを知るために来た、とはもちろん言えない。そんな失礼は口が裂けても言えない。開脚に興味がありましてと答えた。
一通り動機を尋ねた後、講師の吉田はでは早速始めましょうと言って両手をパンと打ち合わせた。
「みなさんは夢がありますか?みなさんの夢は何ですか?」講師はそう切り出した。
 参加者全員が虚をつかれた。夢?どうして夢の話をするのだろうか。開脚の講座をするのではないのか。でも先生は始めると言ったのだ、講座はもう始まっている。
 先生はまた一人ひとりに夢を尋ね始めた。主婦だという40代の高橋さんはゆっくりとした自分の時間を持つことと言った。高橋さんのママ友の40代の田所さんは若い男の子と恋がしたいと言った。「既婚者ですよね」という吉田の指摘に会場が和やかな空気に包まれた。先生から見て左端から順に訊いて行くようだ。僕が聞かれるのは最後になる、僕の夢とは何だろうか。田代さんは結婚して幸せな家庭を築きたいと言った。相川さんは絵を描いているので個展を開きたいと言った。二人は職場の同僚だという。一人で来ていた20代後半くらいのきれいな森川さんは、夢はありませんと答えた。夢がないのは悪いことではありませんと吉田は返した。
「では最後に小川さんはどうですか?」
「『自殺論』が本屋大賞を獲ることです」
 会場が静まりかえった。空調の音が聞こえた。教室の中の全ての存在が消えてしまったかのようだった。僕もどうしてそんなことを口走ったのかわからないが、無意識に口にしていた。
「すみません、お金持ちになることです」とバカみたいなことを咄嗟に口にしてお茶を濁した。
 あまりに想定外の答えだったのだろう、講師の吉田も一瞬間返す言葉を失っていた。僕が「お金持ちになることです」と答えてようやく「お金を稼ぐことは悪いことではありません」と口を開いた。
「みなさん、ありがとうございます」と本当にありがたさそうに吉田は言った。それから、「全て叶います。叶えない方が良いことも一つありましたけど、全部叶います」と言って田所さんの方を見た。この一言で会場が再び和やかな空気を取り戻した。
「開脚ができるようになれば何でも実現できます。あるいは開脚もそのうちの一つといっていいかもしれません。つまり開脚が夢を叶えてくれるというよりかは、開脚ができる状態にあるということがあらゆる可能性の根源だということです。ですから私が皆さんにお教えするのは開脚そのものではなくてあらゆる可能性を含んだニュートラルな状態になる方法です」
 あらゆる可能性を含んだニュートラルな状態。意味はよく分からないが、とても魅力的な言葉だ。参加者全員が首をひねった。この人は何を言っているのだろうという困惑の色が表情に表れている。
「みなさんの困惑は良く分かります。何はともあれ早速やってみましょう。ではみなさん立って下さい。少し横の方と間隔をとって広がって下さい。もう少し前後に広がりましょう、ああそうです、そのあたりで。では目を閉じて両腕を肩の高さに水平にあげて伸ばしてみてください」
 先生に促されるままに参加者は動いた。僕は目を閉じて自分の腕を肩の高さで水平に伸ばした。はいはいはいはいという先生の声が聞こえた。
「ではそのまま動かさないように目を開けて下さい。周りの人を見てみてください」
 僕は目を開けて周りを見渡した。他の参加者も同じように目を開けて周りを見渡している。何を見たらいいのだろうか?周りもポカンとしている。
「どうですか?水平ではないでしょう?両腕が肩より高かったり、片腕だけが低かったり、とにかく水平ではないでしょう」
 確かにそうだった。水平ではない。僕は隣にいた森川さんに訊いてみた。右腕が高くなっていると教えてくれた。森川さんはきれいな水平だった。
「では座ってください。どうですか?やっていることはものすごく簡単なことなのに実際にやってみるとできない。鏡を見ながらやると当然簡単にできます。でも目を閉じてやるとできない。これ、何が起きているかというと、頭で思い描いている動作と実際の身体の動きが一致していない。ズレが生じているのです」
 教室のドアが開いて一人の女性の姿が見えた。遅れていた参加者のようだ。
「遅れてすみません」と必要以上に頭を低くして申し訳なさそうに入って来た。
「おはようございます。気にしないでください。まだ始まったばかりですから。それに今からが大事な所です。先ほどまでは前回と変わりませんから」
 前回?今来た人は初めてではないようだ。その女性は入り口付近に落ち着いた。
「えーと、ズレの話でした」と吉田は先ほどの話の続きに戻った。「頭と身体の動きにズレがある。開脚と言えばどこが柔らかいというイメージですか?小川さん」
「股関節」と僕は答えた。咄嗟に振られて困惑したがそこ以外に思いつかなかった。
「そうですよね。では股関節はどこにありますか?」
 ぼくは両手を自分の鼠徑部に持って行った。「ここですかね」
「そうですよね。股関節と言えばそこですよね。では股関節って何ですか?」
「股関節って何ですか?」と僕は独り言のように呟いた。股関節とはなんだろう?そんなこと考えたことがない。僕は答えに詰まった。周りの人も考えあぐねている様子だった。それにしても矢継ぎ早に質問が飛んでくる。
「では、関節って何ですか?森川さんわかりますか?」
「関節?関節は骨と骨のつなぎ目」
「そうですね。ということは股関節も何らかの骨と骨を繋ぎ合せたところのはずですよね?」
 何らかの骨と骨を繋ぎ合せたところと声に出さずに言ってみた。何らかの骨と骨。
「小川さん、先ほど小川さんがジェスチャーで示してくれたところに骨と骨がありますか?」
 僕はもう一度自分の鼠徑部に手を当てて骨があるか確認してみた。他の参加者も各々の鼠徑部に手を当てて確認し始めた。
「骨と骨どころか一つの骨すらある気がしないです。肌を触っているだけという感じです」
「ということは、そこは股関節ではない可能性が高い。もっと言えば関節でもないかもしれない」
 吉田はスーツケースを開いて骨格模型を取り出した。かちゃかちゃと模型がぶつかる音がした。
「股関節はここです」と言って模型のある部分を指で示した。
「股関節というのは大腿骨という太ももの骨
と寛骨という骨盤を構成する骨との繋ぎ合せの部分のことです。太ももの骨の先端の大腿骨頭が寛骨臼というくぼみにはまる格好になっています」
 へぇという感嘆の声が上がった。寛骨なんて単語は初めて聞いた。
「この模型を見てもらえれば分かるのですが、股関節というのは実はお尻に近い側にあるんです。英語ではヒップジョイントと言います。まぁでもこれに関しては身体の感じ取り方の違いでしょうから、英語圏の人はヒップに関節があると思い、日本人は股間に関節があると思った。ただ、骨格構造に違いはないわけですからここに感じ方を持ちこんではいけません。学を見るんです」
 僕はおしりを触ってみたが模型を身体の中に感じることはできなかった。横を見ると森川さんはノートにメモをとっていた。
「股関節が何かということを知らなくて、股関節ではない場所を股関節だと認識して体を動かしている。ズレです。思い込みです。こういう思い込みが身体の至る所で起きている。そしてそのことに気がついていない。本来曲がるべきところが曲がらず、曲がってはいけないところが曲がっている。関節が関節の役目を果たすことができず、骨で立つということもできなくなり、筋肉に余計な負担をかけてしまう。そのようにして歪みが生じてきます。でもここは大事なことなのですが、歪みは決して悪者ではありません。もうこれ以上負担をかけないでくれというメッセージを筋肉の硬化という現象で伝えているのです。ですから痛みを我慢してとにかく引っ張るようなストレッチは筋肉が『やめて』と言っているのに『うるせえ』と押しつぶすようなことなんです。もちろんストレッチにも効果はありますが専門的な知識なしでやるべきではありません」
 引っ張って柔らかくするものだと思ってましたと高橋さんが言った。皆も一様に同意して頷いた。
「大事なことはズレを修正して思いと動きを一致させることです。ストレッチでも筋力トレーニングでもありません。身体が本来持っている構造に従ってその機能と働きの通りに動く。もっと言えば生きる。それが自然体ということです」
 吉田は再び骨格模型を手に持って太ももの骨をぐるぐる動かした。
「こんなに自由に動くんですよ、すごいですよね。人の身体は骨だけで成り立っているわけではありませんので実際はもちろん制限はありますが、それでも自由自在です」
 嬉しそうに話をする吉田はまるでちょうちょを見つけて追いかける子供のようだ。
「本来人の身体はこんなにも自由自在に動ける。でも何かしらの要因によってその動きが制限されている。その制限を取り払った本来の状態に戻る、それがニュートラルな身体の意味です。どうですか、こんなにぐるぐる動く股関節があれば何でもできそうな気がしませんか?」
 皆の口元がほころび表情が明るくなった。部屋自体もどことなく明るくなったように感じられた。実際明るくなったのだと思う。
「厳しい言い方をすればズレというのは生き方のズレでもあります。こういうことをしたいと思っている、でも実際には全く違う方向に足を進めている。あるいは足は向こうに行きたいのに頭があっちに行けと制している。だから一向に夢に近づけずむしろ遠ざかってしまう。そして繰り返しになりますがそのことに気がついていない」
 今度は皆の表情が引き締まった。真剣に聞くところだと直観したのだろう。森川さんもノートを閉じて吉田の言葉に真剣に耳を傾けている。
「でも大丈夫です。気がついていないのだから気がついたらいいのです。知らないだけなんです。知ればいいのです。そのために私がいます。皆さんは今日股関節が何かということを知りました。それだけでも今日ここに来た価値が十分にあります。体育の先生はそんなこと教えてくれなかったでしょ?私も身体のことを勉強するまでそんなことは知りませんでした。だから私は私が教えてほしかったことを教える立場になろうと思いました」
 そこには押しつけがましさが全くなかった。それは彼女自身が何よりもうれしそうに楽しそうに話をしているからなのかもしれない。ぼくはこんな楽しそうに話をする教師を今までに見たことがなかった。
「先ほど生き方のズレという厳しい言い方をしましたが、生き方を変えるというのは容易なことではありません。考え方を変えるというのも難しい。身体と心は切り離せません。身体は心に影響を与え、心も身体に影響を与える。身体が変われば心も変わる。ですから身体から変えていくのです。自分の身体に対する思い込みを徹底的に修正してニュートラルな状態を保てるようにする。そのお手伝いをすることが私の仕事です。時間はかかります。根気も必要です。でも身体は確実に反応を示してくれます。ここにいるんだよという声に耳を傾けその存在に気づいてあげるだけで身体は喜びます。身体の喜び以上の幸せはありません。それは私が自分の身をもって保証します」
 吉田は骨格模型を教壇の上に置き、黒板の上にかけられた時計を見た。もう終りの時刻だった。時間を気にかける時間もない程あっという間だった。
「話だけで終わってしまいましたが、どうしても皆さんにお伝えしたいことでしたのでご了承ください。午後の部では実際に身体を動かして理解を深めていきますので心配なさらないでください」
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