第30話

文字数 1,729文字

30
 黒崎駅に向かい、頂いたばかりの八万円をATMに預け一万円だけ引き出した。コンビニで炭酸水を買った。喉に刺激がほしかった。  
在来線の快速電車博多行きに乗り込み、席に座ってすぐに、炭酸水を半分一気に飲んだ。げっぷを吐き出したかったが、電車の中なのでさすがに踏みとどまった。
 窓際に炭酸水を置いて、頬杖をつき窓の外を眺めた。窓の外に続く家々を見ていると、YUIの『Your Heaven』が頭に流れてきた。「遠い昔写真で見た赤い屋根の続く街でlalalala出逢う気がしていた」とその歌詞を口ずさんだ。そう口ずさむと、まるで写真のように、街が静止しているように見えてきた。最後まで歌い切り、次は何を歌おうかと考えていると「難しい顔をしていますね」と横から声が聞こえた。窓の外に向けた顔を声のした方に移すと、シルクハットを被った老紳士が隣に座っていた。ばっちりと正装をしている。
「隣に座らせていただきました」とその紳士は言った。辺りを見回すと席はたしかに埋まっていた。一曲歌っている間に電車は次の駅に停車して新たな乗客を迎えていた。街が写真のように見えたのも無理はない、電車が動いていなかったのだ。
「はい、どうぞ。通路側で大丈夫ですか?」と訊くと「かまいません」と丁寧に断った。
「楽しく歌ってたつもりだったんですけど、難しい顔していましたか?」
「思いつめているようでした」
 竹内さんの上の空と、栞さんにそっけない態度をとってしまったことに対する気がかりがまだ拭えていなかったのかもしれない。
「他人のことってよく分からないものですね。ついさっきまで普通に話をしていたと思ったら急に目がうつろになって上の空になったり」
「他人のことが分かったと思った時は、自分を疑うことです」と紳士は穏やかに言った。それから帽子をとって膝の上に置いた。品のある白髪をしている。
「他人のことなど分かるはずもないのです。分からないはずのことが分かるというのは神様だけが為せる所業です。ですので、『私はあの人のことが分かった』と言うのは『私は神様だ』と宣言しているのと同じです。そんな宣言をする人など信用ならないでしょ?」
 この紳士はいきなり何を言い出したのだろうと思いつつも僕は「ええ」と答えた。
「神様は神様しかいないのですから、神様は『私は神様だ』とは言いません」
 僕はそれについて考えた。腕を組んだ。顎を持ちあげた。首を左右にひねった。胸を突き出すように反らせた。
「でも、神様は神様一人しかいないのならば、『私は神様だ』と宣言できるのは私の他にはいないというその代替不可能性が、神が神であることを証明するんじゃないですか?」
「あなたはなかなか頭が切れますね」と紳士は嬉しそうに僕に褒め言葉を贈った。
「鈴ちゃんには敵いませんけど」
 紳士は一瞬戸惑った表情を浮かべたが、その言葉には取り合わず「はたしてそうでしょうか?」と言った。「神様は人間ではないのですよ」
「はい、神様は神様です。だから『私は神様だ』と宣言する」
「どうして神様ではない人間に『私は神様だ』と言う神の言葉が聞きとれるでしょうか」
 そう言って紳士は僕の目をまっすぐ覗き込んだ。さぁ答えて下さいとその目は語っていた。できることなら頭をフル回転させて考えたかった。まっすぐ覗き込む目に応じたかった。でも僕はそうすることができなかった。僕の頭は回らなかった。わずかながらに回った頭にも良い回答は思い浮かばなかった。でも、もし僕がこの質問に何らかの回答を与えたとしたら、それこそ人知が神様に及んだことになるのではないか。紳士の見解を借用するなら、人知の及ぶ存在を神とは言えない。僕は神様ではない。自分のことを神様だと思ってもいないし、神様になりたいとも望んでいない。今僕が知りたいのは、竹内母は一体どうしたのだろうかということと、なぜ僕は栞さんにそっけない態度をとってしまったのかということだ。
「神様の話はもうやめましょう」と僕は言った。
「そうですか」と言って紳士は前を向いた。僕はまた窓の外を見た。もう何の歌も思い浮かばなかった。紳士が赤間駅で降りるまで会話はなかった。「失礼します」と言って紳士は席を立った。僕は会釈した。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み