第22話

文字数 1,800文字

22
 建物の外に出ると再びひどい虚脱感に包まれた。インフルエンザに罹った時のような全身の倦怠感と熱っぽさがあった。辺りはもう暗くて風が少し冷たい。風が肌に触れると少し痛い。あるいは本当にインフルエンザに罹っているのかもしれない。春の風邪からは遠ざかっているし、冬の風邪にしては早すぎる、夏風邪なのかもしれない。夏風邪、いい響きだ。
 時刻を確認すると18時20分だった。飛鳥とは18時に待ち合わせるようにしていた。遅刻だ。三回着信が入っていた。すぐに電話をかけると、もうお店に入っているということだった。
 同じく鈴ちゃんからも何度か電話が来ていた。短時間でこんなに多くの着信があったのは初めだ。メールが来ていた。駅の改札を出たところで待ってる、と。メールは17時50分に来ていた。お店の場所は先に伝えてある、博多駅構内の豚しゃぶ屋。さすがにもう行っているだろう。電話をかけると、まだ待っているとのことだった。詫びを入れて、すぐに向かうと告げた。もうずいぶん長く待たせてしまっている。
 地下鉄の中で清掃員のおじさんとのやりとりを振り返って整理してみた。起こっていることを理解せずにとりあえず受け入れろとおじさんが言ったものの、僕はどうしてすんなりとそれを受け入れて話を進めることができたのだろうか。よく考えると、あまりにも非論理的かつ非現実的ではないか。自動販売機の部品が話しかけてきた。それはおじさんの何かしらの念が吹き込まれた結果であり、その部品が自動販売機に使用されて回り回ってあの会場に設置された。その自動販売機が発する声を誰かが拾い、拾ったことをおじさんはゴミ箱を介してキャッチした。おじさんはその情報をキャッチするためにあの施設でボランティアを始めた。いや、情報をキャッチするよりも前に、誰かが自動販売機の声を拾ってしまわないためにそこにキャッチャーとして立ちはだかっていた。しかし、誰かがその声を拾い飲み込んだ。誰かがその声を飲み込んだことによって部品は生命を失い自動販売機は壊れて撤去された。そして、その誰かがスティービーであると僕は直感している。
 僕は深いため息をついた。隣に座っているパーマをかけた50代くらいの女性が僕の方をちらっと見た。
 もう一度ため息をついた。その女性は今度は僕の方を見なかった。
 一体これは何なんだ。だいたい僕は何を聴いたんだ。おじさんの手を握りおじさんがゴミ箱に手をつっこむと身体の中に声がした。実際に声が聞こえたのではない。文字が見えたのでもない。あの文章をイメージとして黙読しているような感じだった。でもそれは記号のような曖昧な形象ではなく明確な文章だった。実際の声が聞こえていたならばスティービーだと確証を得られていたかもしれない。ちょっと待ってくれ、俺はそれがスティービーであってほしいと思っているのか。もしあの時公園に出没したのが自販機の声を拾ったスティービーであるならば彼が生きていることを示す証拠となるけれど、声を飲み込んだ先はどうなるのか分からないとおじさんは言った。彼であってほしいようであってほしくもない。
 深いため息をついた。たぶん人生でついたため息の中でいちばん深いため息だった。隣の女性は一つ分席を空けた。余計な手間をとらせて申し訳ないと思った。その女性は天神で降りた。その方の目的地が天神であることを願った。
 改札を出たところに鈴ちゃんが待っていた。グリーンの膝丈のスカートに黒いTシャツ、スニーカーという格好だった。とてもよく似合っていてかわいかったのだが、何故だか、制服を着てくれていたらなと思った。彼女を目の前にした時、やはり清掃員のおじさんには一人で会いに行って正解だった、隣に鈴ちゃんがいなくてよかったと思った。そして僕はその少女を抱きしめたくなった。こんなに誰かを抱きしめたくなったのは初めてのことだった。しかし、風邪をうつすわけにはいかない。待たせてごめんと謝ると、遅いと言って僕の肩を叩いた。
僕の肩に触れた鈴ちゃんが「あつっ」と声をあげた。
「大丈夫?熱あるんじゃない?」
「大丈夫。行こっか」と平静を装った。
 店に入って店員に名前を告げると、先に入っておられますと言って個室に案内してくれた。個室のふすまを開けると、そこにいたのは若菜だった。「お姉ちゃん」と鈴ちゃんが驚いて声をあげた。僕はそこで意識を失って倒れた。
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