第23話

文字数 3,974文字

23
中学校の修学旅行は二泊三日の京都・奈良への旅だった。修学旅行を旅と称していいのかわからないが、とにかく二泊三日で奈良と京都に行った。
 三日目、僕は朝から頭が痛かった。時間が経過するにつれて徐々に熱っぽくなり、人混みによる頭痛ではないことが分かって来た。帰りの新幹線の中でいよいよ体調が悪化し、駅に着いた時には身体が重くて歩くのがやっとだった。
 駅から家までの帰り道、僕は若菜と一緒になり、若菜が冷えピタをおでこに貼ってくれた。どうしてそんなものを持っているのかと聞くとなんとなく必要な気がしたからと言った。一泊目と二泊目に同部屋の子に一枚ずつ渡して最後の一枚が偶然残っていたという。
 その日僕の両親は不在だった。あんたが修学旅行に行くのなら私たち夫婦も旅行に行ってくるという謎の理由で家を空けていた。どこに行くのかは教えてくれなかった。うちの経済事情を鑑みれば大層な所には行っていないとは思うのだが、いまだにその場所は知らない。
 若菜もそのことは知っていたので一度家に帰ってから看病に来ると言った。熱をうつしたら悪いから結構だと断ったが、無視して家にやって来た。
僕は鞄をその辺に放り出して制服からTシャツと短パンに着替えただけでベッドに倒れ込んでいた。熱を計ると39度近くあった。若菜は洗面器に水を張りタオルを濡らして僕の額に乗せてくれた。タオルがぬるくなると水を換えてまた乗せる。僕はすぐに眠りこんだのだが、寝ている間もそれをずっと繰り返してくれていた。目が覚めた時、ニ時間が経っていた。若菜はおかゆを作ってくれていた。早くに母親を亡くした佐々木家はゆみ姉と共に若菜が一家の母親のような存在だった。飛鳥と父親のために、そして自分自身のために、毎日二人でご飯を作っていた。そのおかげか、お粥を作るくらい朝飯前だと得意顔だった。僕はそれを二口三口食べてまた横になった。
 何か話をしたかったが声を出す気力もなく、若菜もただただ黙ってベッドの横に座っていた。修学旅行どうだったと訊くと黙って寝てなさいと制された。黙って寝ることにした。
 寝ているふりをしようと思ったのだが、本当に寝てしまった。次に目が覚めたとき、若菜は僕の手を握って眠っていた。その手は温かかった。しかし、若菜の手が温かいのか自分の熱によって熱いのかはっきりとしなかった。起こさぬようにそっと手を離そうとしたのだがその瞬間に若菜は握る力を強めて離さなかった。僕はあきらめて少しだけ強くその手を握り返した。きれいな寝顔だった。僕が若菜の手を握り返した時、その顔が少しだけ微笑んだように見えた。その頬笑みを見て僕はまた眠った。
 目を覚ました時、若菜の姿はなく、帰りますという置手紙が残されていた。翌日の朝、若菜が作ってくれたお粥を温め直して食べた。市販の薬を飲んだが熱は一向に下がらず体調は悪くなる一方で、両親が帰って来てから病院に行くとインフルエンザと診断された。一週間の安静を言い渡された。僕の熱が引いた後、案の定若菜がインフルエンザにかかった。おそらくそれが、若菜が最後に引いた風邪だった。

 気がついた時、僕は駅構内の救護室のベッドに横になっていた。身体がひどく重くて熱い。額に重たさを感じて手を伸ばすと濡れたタオルが乗っていた。身体を起こすと飛鳥と鈴ちゃんがベッドの横に椅子を並べて隣り合って座っていた。「大丈夫?」と二人が声をそろえて訊いた。大丈夫ではないだろうと思ったが大丈夫だと答えた。
「すごい熱みたい」と鈴ちゃんが言った。
「栞さんが看護してくれた」と飛鳥が言った。
「しおりさん?」
「私のお姉ちゃん」と鈴ちゃんが言った。
 しおりさんらしき人はいなかった。部屋には僕たち三人しかいない。
「わかな…」と僕は吐息のように漏らした。飛鳥がごめんと勢いよく謝った。
「さっきの人はかなちゃんじゃないの。栞さんっていう東京のバイト先の先輩。驚かせるつもりだったの」
 僕はただ黙って聞いていた。何も言葉が出て来なかった。飛鳥は続けた。
「私も初めて会ったときはびっくりした。それはもう宇宙人に会うよりもびっくりした。かなちゃんが生きてるって。お化けに会ったのかと思った。開いた口がふさがらないって本当にあるんだって感動したくらい」
「そんなことよく今まで黙ってられたね」と僕は感心して言った。
「出身がこっちだって知ったから、いつか一緒に帰ってなおを驚かせてやろうと思って言わなかったの」
「ゆみ姉には?」
「言ったよ。でもなおには言わないでって厳重に注意しておいた」
 僕はため息をついた。ゆみ姉も全くそんなそぶりを見せなかった。
「まさか倒れるとは思わなかったから。それに私の方こそびっくりしたんだけど。私に似てる人がいきなり目の前に現れたんだから。しかもその子が栞さんの妹だったなんて。サプライズにも程があるんだけど」
 こっちにはサプライズを仕掛けるつもりなんてさらさらないというのに、飛鳥はいつもの調子で僕を責め始めた。
「私だってびっくりした」と鈴ちゃんも口を開いた。
「先生の昔からの幼馴染の人とご飯を食べるって聞いていていざそこにいたのが私のお姉ちゃんだったんだから」
 鈴ちゃんまで僕を責めているようだった。僕は二人にごめんと言った。なぜ謝らなければならないのかも分からないままに。
「それでそのしおりさんは今どこに?」
「外で待ってる」と飛鳥が答えた。
「栞さんは看護の学生で、さっきまでなおの看病をしてくれていたんだよ。駅の職員の方に頼んで洗面器とタオルを用意してもらって、そのおでこのやつは栞さんがやってくれたの。私たち二人は邪魔しないようにその間は外で待ってた。私を見たらまた倒れるんじゃないかって心配して今は外で待ってる」
「謝りたいって言ってた」と鈴ちゃんが言った。
「謝りたい?」
「驚かせたこと」
「こっちは礼を言いたい」
「呼んでこようか?」と鈴ちゃん。
「お願い」
「また倒れないでね」と飛鳥。
「大丈夫。たぶん」
「若菜って呼ばないでね、かなちゃんじゃないんだから」
「わかってる」
 二人はしおりさんを呼びに部屋の外に出て、部屋にはしおりさん一人だけが戻って来た。分かっているとは言ったものの、覚悟はしていたものの、その覚悟を上回る程しおりさんは若菜に似ていた。僕の心情に見合う表現が見つからない。感情も複雑で言葉も出て来ない。全身から熱が引いたような感覚がした。起き上がっている僕を見てまだ寝ててくださいとしおりさんは注意した。僕は身体を倒した。しおりさんは僕の手からタオルをとり水にぬらして僕の額においた。目が覚めているときにそんなことをされると否が応でも照れてしまう。心臓の鼓動が速くなった。
「ごめんなさい」と彼女は申し訳なさそうに言った。
「いいえ、気にしないでください。こちらこそ看病してもらってすみません。ありがとうございます」
「驚かせたい人がいるって飛鳥ちゃんに言われてつい軽い気持ちで」
 僕は何も言わずに首を横に振った。
「飛鳥ちゃんに写真を見せてもらったことがあって本当に似てるってびっくりしたんですけど、えーと」と言って僕の顔をじーと見た。名前が分からないのだろう。
「小川です。小川なお。小さい川に奈良の奈に一緒の緒で奈緒です」
「竹内栞です。本の栞の栞です」と指で空中に栞の字を書きながら自己紹介をした。「それで、小川さんから見ても似てますか?若菜さんに」
「すごく。だから倒れたんだと思います」だからの意味は自分でも分からなかった。
「ごめんなさい」とまた謝った。
「いや、そういうつもりじゃ」
「それにしてもすごい熱ですけど、いくら飛鳥ちゃんに会うからって家でおとなしくしていた方が良かったんじゃないですか?」
「家を出る前は何ともなかったんです。せい」と言って口をつぐんだ。清掃員のおじさんに会った後で熱っぽくなったとは言えない。
「とにかく看病してくれてありがとうございます。助かりました」
「いえいえ。でもまだ熱は全然引いてないですからね」と言って額からタオルをとって濡らし直してまた乗せた。栞さんの顔が間近に近づいて一瞬僕の呼吸が止まった。
 栞さんが椅子に座りなおしてから僕は訊いた。
「寝ている時なんか寝言でも言ってなかったですか?」
「いいえ」と栞さんは首を振った。
「なんか変なことしませんでした?」
「変なこと?」と首をひねった。
「手を握ったり」
「ちょっと痛かったです」と小さく笑いながら言った。
「ほんとですか?ごめんなさい」と僕は慌てて起き上がって謝った。
「冗談ですよ」と栞さんは微笑しながら僕の身体を寝かせた。その表情と口調からは本当なのか冗談なのか判然としなかった。でも、僕の手には誰かの手を握った感触が残っていた。あの声を聴いたときに握ったおじさんの手だろう、そう思うことにした。
「鈴の家庭教師をしてくれているそうですね」と栞さんは話を切り出した。
「はい。いろいろとあってそういうことになりました」
「ありがとうございます。本人も楽しんでいるようで」
「いいえ。僕は感謝されるようなことは何もしてません。鈴ちゃんは頭が良いので僕が邪魔なくらいです」
「そんなことないですよ。あの子が人になつくことなんて阪神が二年連続で日本一になるくらいないことなんですから」
 僕は笑った。
「そう言ってもらえるのは嬉しいです。人懐っこい子かと思ってました」
「とんでもない」
「阪神が好きなんですか?」
「はい。あのしましまのユニフォームが好きで。小川さんは?」
「ジャイアンツ」
「敵だ」と言って栞さんはにっこり笑った。
 二人を呼んで来ると言って栞さんは部屋の外に向かった。僕は何とか呼吸を落ち着かせようと努めた。若菜、と僕はつぶやいた。
部屋に入ってくる飛鳥と鈴ちゃんはすっかり仲良しになっているようだった。
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