第21話

文字数 10,885文字

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 飛鳥との待ち合わせまではまだ幾分時間があったため、開脚教室が行われた会場であるももちパレスまで行ってみることにした。清掃員のおじさんに会って「小説を探していた」ことの真意を確かめたかったのだ。
飛鳥との食事に鈴ちゃんを誘ったのだが、その日は姉が帰ってくるから行けないと断られた。
 ももちパレスに着くと、開脚教室が行われた4階に直行した。エレベーターを降りてロビーに足を踏み入れたときに違和感を感じた。何かが前回来た時と変わっている。清掃員のおじさんの姿はなかった。別の階・他の棟を一通り見て回ったがおじさんを見つけることはできなかった。体育館にも行ってみたがいなかった。
 総合受付でおじさんの手掛かりを訊いてみることにした。
「あーオガワさんですね」
「いや、僕の名前じゃなくて、というかなんで僕の名前が分かるんですか?」
「いえ、あなたのことではなくて、その清掃をなさっている方の名前です」
「おがわさんっていうんですか?」
「はい」
これは驚いた。僕と同じ名前だったとは。
「小さい川でおがわ?」
「漢字は分からないんです」
「そこまでは教えて頂いていないんですか?」
「いえ、そうではなくて…オガワさん自身が俺には漢字がないっていうんです」
「漢字がない?」
「ええ。俺は音だけだって」
 僕は返事をせずに、どういうことなのかと考えていた。
「そうですよね、意味が分からないですよね」と黙り込んだ僕を推し測るように係の女性は言った。
「私たちも最初はそうでした。でも名前を呼ぶことに漢字は必要ないですから特に不都合は感じなくなりました。慣れです」
 そういうものなのだろうか。
「でも書類とかで必要じゃないんですか。雇用するにあたって」
「それは大丈夫です。オガワさんはボランティアで清掃をしてくれていますから」
「ボランティア?」
「何年前だったかな?」と係の女性は右上を向いて思い出そうとした。
「何年前だったかな?ある日急に現れていきなり『ここで清掃員をやらせて下さい、お金はいらないから』って。もちろん私たちはそんな急に困りますって断ったんですけど、もう勝手に始めまして。何あの人?ってみんな思っていたのですが、いかんせん働きぶりが迅速かつ丁寧なのでいつの間にかお任せするようになったんです」
「ねえ」と後ろでデスクワークをしていた同僚の女性に確認した。その女性は静かに頷いた。
「それで、今どこにいるかわかりますか?」
「えーどうだろう?」と左手の人差し指を左のこめかみに当てた。
「いつもいつの間にか来ていつの間にか仕事を終わらせていつの間にか帰ってますから。会えたらラッキー、捕まえられたら奇跡って感じです。エンテイとライコウみたいな」
 それがポケモンの名前であると理解するまでに数秒かかった。「うん、確かに奇跡ですね」と僕は言った。「マスターボールが…」と話を続ける係の話を僕は黙って訊いていた。後ろの女性は表情一つ変えなかった。あなたが撒いた種なのよと言わんばかりの無表情だった。僕は礼を言って受付を後にした。隣に鈴ちゃんがいたらどんな反応を示していただろうかと思った。気の利いた返しをしていたかもしれない。そう思っていると電話が鳴った。鈴ちゃんからだった。
「お母さんがせっかくだから行ってきなさいって」
「お姉ちゃんはいいの?」
「どうせ夜まで帰って来ないからって」
「そっか。じゃあおいで。待ってるから。場所は後でメールする」
「うん」
「ねえ」
「なに?」
「エンテイとライコウってどうやって捕まえる?」
「なにそれ?」と鈴ちゃんは聞き返した。
「なんでもない」と言って僕は電話を切った。
 もう一度開脚教室が行われた棟の4階に行ってみると、そこにオガワさんがいた。ロビーのソファに座って窓の外を眺めていた。僕はオガワさんが見つめる先を見た。青空が見えるだけだった。僕はオガワさんの隣に座って「こんにちは」と声をかけた。オガワさんは僕の方を振り向いて2秒程僕の顔を見つめてから「おおあんたか」と言った。
「あの時の、たしか開脚教室に来ていた」
 僕の顔を見つめる表情やその話しぶりはまるでこの前公園で会ったことを忘れているかのようだ。
「久しぶりじゃの。たしか先月の頭だったかの」
やはり公園で会ったことは忘れているようだ。
「いえ、この間会ったじゃないですか」
「この間?」
「ほら、小倉の公園で」
「小倉の公園?そんなとこ行っとらんぞ」
「小説を探しているって言ってたじゃないですか。それがどういうことなのか確かめるために会いに来たんですよ」
おじさんは、コイツは何を言っているのだという表情を浮かべている。それは、初めて鈴ちゃんに会ったときに彼女が僕に対して見せた反応と同じ戸惑いだった。
「覚えてないんですか?」僕は強めに訊いた。
「覚えてないも何も…」
「確かにおじさんでしたよ。青い帽子こそかぶってましたけどその作業着を着てました」
「顔は?顔はわしじゃったか?」
「はい、たしかに」
 それを確認すると、思い当たる節があるかのようにおじさんは数度頷いた。
「それはわしじゃない」
 妙に重たい声でそう言うとおじさんは再び窓の外に目を移した。その目は何も見ていないようだった。
「ただ…」
 おじさんはそこで言葉を詰まらせた。
「そいつは小説を探しているって言ったんだな?」と僕に訊いた。
「はい、そう言いました」
「やはりそうか」と独り言のように呟いた。
「ここに自動販売機があっただろ」と言って、オガワさんが見つめている窓がある方向に指を指し示した。そう言われて自動販売機がなくなっていることに気がついた。先ほどの違和感の正体はこれだったのか。
「はい、ありました」と僕は答えた。
「たしか温冷の調節が狂ってるとかで、ここでは買うなって言ってたやつですよね?ついに壊れて撤去されたんですか?」
「数週間前になくなっていた」それだけを言うとおじさんは黙り込んだ。
「それが何か関係あるんですか?」
「そいつはそれを拾ったんだ」
「それを拾った?どういうことですか?」
「そして飲み込んだ」
 飲み込んだ?自動販売機を拾ったというだけでも意味が分からないのに、さらに飲み込んだときた。
「いや、なんでもない。今のはなかったことにしてくれ。そうだ、自動販売機は壊れて撤去された。それだけのことだ。うん」
 おじさんはそう言うと立ち上がりその場を去ろうとした。僕はおじさんの腕を掴んでソファに無理やり座らせた。
「ちょっと待って下さい。そこまで言っておいてなかったことにしてくれでは済まされません。あまりにも意味深すぎます。ちゃんと説明して下さい」
「知らない方がいい。知らぬが仏というやつだ」
「もう知ってしまったんです。少なくとも一歩、いや二、三歩は足を踏み入れた。しかもものすごく深く。知らない振りはできません」
「まだ浅い。それどころかあんたの足はまだ空中に宙ぶらりんで地面にはついていない。そのまま足をひっこめた方がいい」
「拾ったで右足が宙に浮いて、飲み込んだで地面に着きました。左足ももう動き出しています。だいたい僕は公園でおじさんに会ったのに、おじさんはそれは自分ではないと言う。おじさんは何かしらを知っている。何でもないと言われてはいそうですかとは引き下がれないでしょう」
 おじさんは何も言わずに自動販売機があった場所を見つめている。そしておもむろに「いいのか?」と僕に訊いた。僕は黙って頷いた。
「わかった。話そう。その前にその手を離してくれ」
 僕は我を忘れていた。手を離すときどれだけ力がこもっていたのかを実感した。おじさんの手首は赤くなっていた。
「あんた、体力はあるか?」とおじさんは僕に確認した。
「体力?」
「いわゆる体力だ。持久走を走りぬくそれと考えてもらっていい」
「ある方だと思います」とは言ったものの、家庭教師を始めてからは一度もランニングをしていない。ランニングで身に付けた体力はランニングをしなければすぐに落ちる。体力とはそういう構造でできている。僕はそれを身を持って学んだ。でも「ない」と言ってしまえば話が始まらない。
 おじさんはそこに置かれてあるゴミ箱をとってくれと僕に命じた。僕はゴミ箱をとっておじさんに渡した。それから、わしの手を握れと指示した。僕は左手でおじさんの右手を握った。
「いいか?」
 その一言で一気に緊張感が高まった。僕は唾を飲み込んで、はいと返事をした。おじさんはゴミ箱に手を突っ込んだ。
 次の瞬間、静電気が走るように声が身体の中に響き渡った。

「君は豊かな人生を送って来なかったんだね」

 僕は驚いておじさんから手を離した。おじさんはゴミ箱から手を引きぬいて「大丈夫か?」と訊いた。「止めるなら今だぞ」
「大丈夫です。驚いただけですから」
 もちろん大丈夫ではなかった。何が起こっているのか全く分からない。でも今は続けるしかない。
「続けて下さい」
 もう一度おじさんの手を握った。おじさんは再びゴミ箱の中に手を入れた。

「君は豊かな人生を送ってこなかったんだね」と自動販売機が言った。
 百円玉を一枚と十円玉と十円玉と十円玉を投入してアイスカフェオレのボタンを押そうとしたその時だった。
「こんにちは」も「元気ですか」もあるいは「いい天気ですね」といった類の挨拶は何もなく、いきなりだった。
 それは機械による機械的な話し方ではなくて、人間による人間味のある話し方だった。だから僕は最初、人間に声を掛けられたのかと思った。しかし、僕の周りには人っ子一人いないし、目の前にいるのは、いや、あるのは紛れもなく自動販売機だった。僕がそれなりの常識を有しているとして、これまでの経験に照らし合わせるとするならば、自動販売機が人間味のある声を発することはない。そして僕はそれなりの常識を有している、と思う。
「どうしてそう思うの?」
「どうしてとか、何か明確な理由があるわけではないんだけど」
「じゃあ直感みたいなものなの?」
「それとも違うんだよね」
「理由があるわけではなくて、でも直感でもない?」
「うん」
「統計学なのかな。僕がアイスカフェオレを買おうとしたから、この商品を買う人はこんな性格の人だ、みたいな」
「いいや。僕は個人をカテゴリーしたりはしないよ」
「カテゴリー?」
「君が今言ったようなことだよ。つまりね、存在に先立って存在者について〈こういうものだ〉と万人に見えるようにすることを言うんだ」
「なんだか難しいね。よくわからない」
「そりゃ難しいさ。哲学者の言うことだから」
「君は哲学者なの?」
「僕じゃなくて、ハイデガーっていう人が言ってるんだ。知ってる?」
「名前は聞いたことあるよ。自動販売機も哲学書を読むんだね」
「ここから動けないからね、そういうのを読まないとやってられないよ。時間とお金だけはたっぷりあるから」
 僕はなるほどと思った。
「そういうことなのかもしれない」と少し間が空いてから自動販売機は言った。
「そういうこと?」
「君はカテゴリーされた存在者としてこれまで生きてきたのかもしれない」
「それはつまりどういうことなの?」
「それはつまり、君は君ではない者として生きてきたということだよ」
「今世の中で流行りの謳い文句みたいだね」
「自動販売機たるもの世の中の流行りには敏感でないといけないからね」
「それにしては定番のラインナップが並んでいるようだけど」
「流行に敏感ではあっても僕はただの容器でしかないからね。決定権はないんだ」
「まぁいいや。とにかく僕は僕として生きて来なかった、豊かな人生を送ってこなかったというのはそういう意味なんだね?」
「そうだね」
「じゃあ僕が僕として豊かな人生を送るにはどうしたらいいんだろうか?」
「わからない」
「わからない?君の話によれば、そのカテゴリーとやらをどうにかしないといけないような気がするんだけど」
「それはそうだろうけど、何せまだ一巻しか読んでないから」
「最後まで読んだら何か分かるのかな?」
「分かるかもしれないし、分からないかもしれない。あるいは分かったとしても何も変わらないかもしれない。教養とは、お金を投入すれば必ず得られるようなシステムによって涵養されるわけではないから」
「それを自動販売機が言うってなんだか変だね」と言って僕は笑った。自動販売機も笑った。
「でもどうだろう、教養を身につけることがカテゴリーを強化しはしないかな。だって、教養を身につける主体が主体ではないってことでしょ?それとも、そんな教養はそもそも教養ではないのかな」
 今度は先ほどよりも長い間が空いた。心なしか自動販売機が腕組みをして考え込んでいるように見えた。
「確かにそれは重要な問題のように思えるね。大切なことは近道をしては手に入れられないかもしれないけど、間違った道をいくら遠回りしてもそれはあくまで間違った道だからね。経験する必要のない経験を経験する必要はない。そのあたりも含めてまずは最後まで読んでみるよ」
 なんだか自動販売機に負担をかけてしまったようで少し悪い気がしてきた。しかし、僕自身もどこかしら自分の人生に対して無機質さを感じていた。それが僕が僕でないことに起因するのなら、僕は僕として生きたい。
「一ヶ月後にまた来てよ、二巻までは読めていると思うから」
「ありがとう、そうするよ」
「じゃあいってらっしゃい」
 自動販売機を離れてしばらく歩いたところで飲み物を何も買っていないことに気が付いたが、戻らなかった。投入した130円はまぁ会話代だと思えばいい。
 自動販売機は最後に「いってらっしゃい」と僕に言った。僕はどこに行こうとしていたのだろうか。そう思うと、僕は立ち止って動けなくなってしまった。
 一ヶ月後、自動販売機は撤去されていた。僕にはただカテゴリーだけが残された。
 
 
「これは一体何なんですか?どういうことなんですか?何が起こってるんですか?」
「待て。順を追って説明するから。わしも何から話したらいいのか上手くまとまっておらん。とりあえず、今何が起きたのかは理解しなくていいから、起きたこととしてしまっておいてくれ」
 僕はひどい虚脱感に襲われてソファの背もたれに全体重を預けて寄りかかった。
「あの自動販売機はわしが作ったものなんじゃ」
「おじさんが?」
「ああ。飲料会社の計画立案ではなく、下請けとして実際に工場で作業をする方でな。大学を卒業すると同時にその工場に就職をした。そこで自動販売機の中枢になる機械、車で言うところのエンジンにあたる部品を作っていた。定年するまで約40年間わしはその仕事をしていた。 定年したのはつい2、3年前のことだ」
「おじさんは工場で自動販売機のエンジンにあたる部品を作っていた」
「ああ。毎日毎日同じ作業の繰り返しだ。新しい発見もちょっとした変化もない。当然技術の進歩に伴って部品の性能は高まるが、やるべき作業は変わらない。作業に変更があっても変更された作業をひたすら続けてゆくだけだ。まあ工場勤務とはそういうものだからそこに文句をつけても仕方がない。人と話をするのが苦手で自分で決めた道だったからな。給料も福利厚生も申し分なかった。社長や上司にも恵まれた。ただ、刺激はなかった」
 そこでおじさんは一息ついた。
「働き始めてちょうど10年くらい経った時だったかな、村上春樹の小説が出たのが。『風の歌を聴け』。あれは衝撃だったな、こんな小説があるのかってね。あんたは読んだことあるか?村上春樹」
 僕は頷いた。
「好きか?」
「はい」
「わしも面白くてな、むさぼるように読んだ。新作が待ち遠しかった。そして『1973年のピンボール』が出た。内容はよく分からなった。ピンボール機が話すなんて馬鹿げてると思った。この本を読んでわしが気になったのはカントの『純粋理性批判』だった」
 僕の境遇と同じだ。
「一応わしも大学は出てる身だからカントの名は知っておったが、読んだことはなかった。それを読めばこの本を理解する手掛かりが得られるだろうと思って『純粋理性批判』を読んだ。どう頭を働かせたらこんな難しい文章を書けるんだろうと思ったよ。でもまあ何とか最後まで読み切った。読み切って分かったのは、俺は時間を追い越し空間をはみ出したんだということだった。わしの言ってることは分かるか?」
「なんとなく。僕も一応読みましたから」
 おじさんは驚きの表情を浮かべ「あんた若いのに珍しいな」と言った。
「読むに至ったいきさつはおじさんとさして変わりません。と言うか同じです」
 そう言って僕は背もたれから背中を離した。
「いつの時代も似たような人がいるもんだな」
それじゃあ話が速いとおじさんは言った。
「わしの刺激のない日々は時間と空間という区切りの外に出たことに起因している。レールの外いや、レールだとニュアンスが違うな、きれいに整列されたタコ焼き機の穴の外に出た、と言った方がまだ正確かな。穴の中に入っている液は熱を加えられてどんどんきれいな形に成形されていくのに、わしは穴の外で形なきいびつな固形となっていく。そこに周りからの遅れと疎外感を感じていた。そういうことだったのかと得心した。だから、流れる時間の中に戻り空間に収まればいいのだと思った。しかしカントはその方法までは書いていなかった。そこでわしは時間とは何かを知りたいと思った」
「それがハイデガーだった?」
「そう、あんた鋭いな」と微笑を浮かべて僕を見た。
「さっき出てきましたから」
「『存在と時間』なんてぴったりの本を書いてたからな。これは読んだか?」
いいえと言って僕は首を横に振った
「早速読んでみた。そうしたらカテゴリーの話が出てきた。でもそれはカントの言うそれとはどうやら違うみたいだった」
「存在に先立ってどうこうとか」
「ああ。存在に先立って存在者についてこういうものだと万人に見えるようにすることだと」
「ある人がある人ではなくならせること」
「そういうことが起きてるんじゃないかとハイデガーは言っていた。それでわしはひどく気が沈んだんだ。時間や空間に戻るどころか、戻ろうとする俺がそもそも俺じゃない。そんな俺が時間や空間に戻ったところで何も変わらない。そう思うと何もする気が起きなくなった。圧倒的な無力感に苛まれていった。それでも生活しなければならないから仕事は続けた。そしたらある時部品がわしに声をかけたんだ。『君は豊かな人生を送って来なかったんだね』と。幻聴かと思ったさ。ありえない、そんなのまるで『1973年のピンボール』じゃないか。でもたしかに自分の手元にあるその部品から聞こえてくるんだ。そこで分かったよ、小説のような奇妙なことが起こってるんじゃなくてあの小説が現実を描いたんだってね。勘違いして欲しくないのは、村上春樹がわしを無力感へと導いたと言ってるわけじゃないからな」
「ええ分かります。その時の会話がさっきのやつなんですか?」
「違う。そうじゃない。おそらくあの時わしがその部品に何かしらを吹き込んだのだろうな。念のようなものを。もちろんそんなことを意図してはいないが形としてはそうなった」
「そしてその部品が実際に自動販売機に使用された」
「ああ。他のあまたの不特定多数の部品に交じって製造ラインに乗った」
「どうして処分しなかったんですか?」
「あんたの言う通り、処分すべきだった。でも処分しなかった。それこそ誰かの手に渡るかもしれないから、それを恐れて自分の手元に置いておいた。世に出す気なんてなかった。しかし気がついた時にはわしの手元から既に離れておった」
 僕はため息をついた。呆れのため息ではなくて、気持ちを落ち着かせるために。立ち上がって深呼吸をし、数歩歩いた。そしてまた座った。
「その部品が使用された自動販売機がここにきた。そしておじさんの言葉を借りればだれかが自動販売機の言葉を拾った」
「そういうことだ。探しに探しまわってようやく見つけた。30年もかかったよ。30年前の部品がそのまま使われるなんて考えられないから、念だけが移って回りに回ったんだろう。とにかく見つけた。だが、自動販売機を壊すことはできないし、撤去を命じる権限なんてわしにはない」と言っておじさんはうつむいた。自分の靴の甲をただ眺めている。
「だから清掃員として働いて自動販売機の近くにいられるようにした」と僕は推測を述べた。
 おじさんは下を向いたままああと言った。
「でも、現実問題として全ての人を近づかせないというのは無理な話でしょう?」
「それがどうやら誰かれ構わず話しかけるのではないようなんだ」
「選んでいる?」
 おじさんは顔をあげた。
「基準はわしにも分からん。あんたもこの前あの自動販売機に違和感を感じておっただろ?」
 僕はあの自動販売機に人の視線を感じたことを思い出した。じっと見られているような感覚があった。
「そう言えば見られているような感覚がありました」
「ロビーにいるあんたを見てそれが分かったよ。だからわしはその自販機は使うなと忠告したんだ」
 そういうことだったのか。温冷が狂っているなら施設側が利用禁止の措置をとっているはずだ。どうしてそんなことに気がつかなかったのだろう。
「そうだったんですね、壊れていたわけではなかった」
「だからわしはキャッチャー・インフロントオブ・ザ・ダストボックスじゃなくて、キャッチャー・インフロントオブ・ディス・ベンディングマシーンだったわけだ。惜しかったな」
それには答えなかった。どちらでもいい。
「じゃあ何で撤去されたんですか?」
「壊れたんだ、機械として。声を拾った者がその声を飲み込んだ。それによって部品が生命を失い自動販売機自体が機能しなくなった」
「それが、飲み込んだということですか?」
「ああ。キャッチャーたりえなかった」
 おじさんの声はひどく沈んでいた。それはどんな力持ちでも持ち上げられない程重たかった。
「どうしてそれがわかるんですか?その、部品が生命を失ったって」
「言うなればあれはわしの分身だからだ。わし自身が親機、自販機が子機、そしてこのごみ箱が通信ケーブル、要は媒介だ。この媒介を通して子機の状況を逐一把握できる」
「それでゴミ箱に手を突っ込んでいたんですね。情報をキャッチするために。それがあの時の思い出の意味なんですね、手に持つことはできないけどこの空間を漂う念」
 おじさんはそうだと言って頷いた。ただそこには理解しあえる喜びのようなものは全くなかった。含みのないただの「そうだ」と頷きだった。
「じゃあさっきのはそれを拾って飲み込んだ誰かが記したあの自販機とのやりとりということになるんですか?」
「正確には飲み込む前だ」
「飲み込む前?」
「誰かが自販機の声を拾った。わしはそれをゴミ箱を介してキャッチした。その誰かがその時の様子を書き記したのを再びキャッチしたのがさっきのやつだ。だがわしに分かるのはそこまでだ。通信が途絶えた。そして自動販売機が撤去された。そこでその誰かがその声を飲み込んだのだと分かった」
「じゃあ僕が聴いたのはアーカイブということですか?」
「そんなところだ」
「じゃあ今その誰かと自販機がどうなっているかは分からないんですか?」
 おじさんは静かにゆっくりと首を振った。
「分からない。誰かが飲み込んだ。自販機が壊れて撤去された。分かるのはそれだけだ」
「僕が公園で見たおじさんがその誰かということなんですね?」
「そういうことだろう。わしのなりをしていたというのがどういうことなのかまでは分からんが」
「その誰かに心当たりはないんですか?」
 おじさんは腕を組んで思い当たる節を探し始めた。右足のつま先を一定のリズムでトントンと打っている。
「そう言えば五月にも忠告をしたやつが一人いたな。この自販機は使うなと。あんたと同じくらいの年齢の男だった」
 スティービーだ、と僕は直感した。彼しかいない。僕は彼の見た目の特徴をおじさんに伝えた。身長175センチの痩せ型だがスポーツ体型、髪の毛が長くて顔が長い。二重でなんとなくニコニコしている。予想だにしない発言をいきなり放つ。
 おじさんはそうだと答えた。スティーブン・ジェラードが前を向かなくなった理由を知るために開脚教室に来たとその男は教えてくれたとおじさんは言った。スティーブン何とかのことは知らなかったが変なことを言うやつだと思っていたと。
あの時、開脚教室に来たのだと言いましたけど、その彼を探す手掛かりを求めて来ていたんです。彼は開脚教室に行った後姿を消しました。誰にも何も言わずに。その手掛かりを探るために僕も開脚教室に参加したのだ、とおじさんに告げた。
 あの時彼にあの自動販売機を使うことを止めるように忠告をし、彼も利用しなかった。だから彼が声を拾ったのは自分の知らない時、別の機会ということだとおじさんは説明した。
 キャッチャーの役目を果たせなかったことは申し訳なく思うが、まだその誰かが彼と決まったわけではない。
 たしかにおじさんの言うとおりだ、スティービーだと確定してはいない。でも、その可能性は高い。僕の直感がそうだと告げている。直感が当たったためしはない。いつも今回こそは今回こそはと期待して外れる。そして今も、今回こそは当たるのではないかと思っている。ただ今回は当たっていて欲しくはない。
「おじさん、その声を飲みこんだらどうなるんですか?」
「わからない」
「わからない?」
「ああ、申し訳ないが」
「その誰かがどこにいて自販機がどこにあるのかは?」
「それも分からない。申し訳ない」
 申し訳なさは十分伝わって来た。でもそれによって何かが解決するわけではない。
「おじさんが言うようにそれが僕の友達かどうかは定かではありません。でもその可能性は高い。そしてもしそうならこのまま放ってもおけません。もし公園で会ったのが彼なら彼はまだ生きています。それが分かっただけでも救いです。僕は彼を探します。だからおじさんは自販機の行方を捜して下さい。彼を見つけるヒントになるかもしれないですから。彼は面白い人です。きっとゲームか何かしてるんでしょう。自販機が撤去された今おじさんももうキャッチャーではいられないんですから協力して下さい」
 おじさんは窓の外を見た。外はもう暗くなっていた。今回は何かを見ているようだった。何かは分からない、でも何かを見ている。そして僕の方に振りかえって「分かった」と言った。
「いいのか、電話?」
 さっきから何度も電話が鳴っていた。飛鳥か鈴ちゃんからだろう。話の途中でケータイを見るわけにはいかない。マナーモードにしておけばよかった。
「この後用事があるんです。すみません、もう行きます」
「長々と悪かったな」
「いいえ。おじさんも気にかかってたんでしょ?ちょっとすっきりした顔してますよ」
「そうか」と言っておじさんは微笑んだ。
「わしはケータイを持っとらん。でも何らかの方法であんたには連絡をする」
 分かりましたと返事をして僕は4階を後にした。
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