第32話

文字数 1,603文字

32
 鈴ちゃんの部屋のドアを開けると、彼女は机に向かって座っていた。僕が中に入ると回転式の椅子をくるっと回し、僕の方を向いた。膝にクッションを抱えている。
開口一番、「カントはどうしてこの本を書いたの?」と鈴ちゃんは僕に訊いた。
僕は部屋の入口に立ったままその理由を答えた。鈴ちゃんはふーんと言って、椅子を回転させまた机に向きを変えた。そのまま何も言わない。僕はカーペットの上に座った。
「やけに無機質なメールだったけど」と僕は声をかけた。
「お姉ちゃんのこと好きなの?」と鈴ちゃんは机に向いたまま言った。
「どうだろう。どうして?」
「ここのところよく会ってるみたいだから。この前、私が学校を早退した日も一緒にいたんでしょ。昨日も」
「そうだね。一緒だった。昨日は鈴ちゃんのお母さんと話をするためにここに来て、帰り際にちょっと玄関先で会っただけだけど」
「何かそっけなくて冷たかったって言ってた」僕は返事をしなかった。
「で、好きなの?」
「どうだろう、わからない」
本当に分からない。栞さんのことが好きなのかどうか。
「どうしてそんなこと聞くの?」
「だって前に言ったじゃない。すぐに好きになるって」
そう言って鈴ちゃんは僕の方に向き直った。たしかにそんなことを言った。そしてそれは間違いではない。
「お姉ちゃん、飛鳥ちゃんの亡くなったお姉さんに似てるんでしょ」
「うん」
「先生はその人のことが好きだったんでしょ」
「うん」
「その人も先生のことが」
「うん、好きだった」
「でも、お姉ちゃんは…」
「わかってる。栞さんは栞さんであって、若菜じゃない。若菜は若菜であって栞さんじゃない。僕が栞さんを好きだとしても、それは若菜に似てるからとかそういうことじゃない。栞さんという人が好きなんだと思う。でも、もう一度言うけど、僕は栞さんのことが好きなのかどうかわからない」
「お姉ちゃんは先生のこと好きだって言ってたよ」
「妹の家庭教師としてね」
「小川奈緒のことがだよ」
「ううん、妹の家庭教師としてだよ」
「何でそうだって言いきれるの?」
「栞さん、今付き合ってる人がいるって言ってた」
「付き合ってる人がいたって他の誰かを好きになることってあるでしょ。それにたぶん嘘だよ、それ」
「嘘?」
「いないよ、付き合ってる人なんて。だって、お姉ちゃん」
そこで鈴ちゃんは言葉に詰まった。一呼吸置いてから話を続けた。
「高校生の時、付き合ってた人に振られて以来恋愛に心を閉ざしたの」
「だから付き合ってる人がいるっていうのは嘘ってこと?」
「そう。だから、先生のことが好きだって言った時、やっと心が開いてきたんだって思ったの」
「栞さんに何があったのかは分からないけど、嘘をついてるようには思えなかった」
鈴ちゃんはため息をついた。「先生は何でもかんでも手放しで受け入れすぎなんだよ」
「だとしたら、栞さんが僕のことを好きだって言ってるのも嘘かもしれない。そう思うことにどんな意味がある?」
「それは…」と言って、鈴ちゃんは黙り込んだ。黙りこませるつもりはなかった。
「鈴ちゃん、栞さんは心を閉ざしていないし、付き合ってる人がいるっていうのも嘘じゃないと思う」
「根拠は?嘘をつくことを前提にしちゃいけないっていうんだったら、お姉ちゃんが先生のこと好きだっていうのも嘘じゃない」
「それは素直にうれしいと思う」
「ほら、やっぱり」
「でも」
「でも何?妹の家庭教師として?そして先生は好きかどうかわからないって?そんなのずるい」
僕は言葉を返すことができなかった。沈黙が流れた。
「じゃあ私のことは」と鈴ちゃんが沈黙を破った。「私のことはどう思う?」
「好きだよ」
「家庭教師の教え子として?」
「一人の女の子としても」
鈴ちゃんは何も言わなかった。僕も何も言わなかった。
「今日はもう帰っていいよ」と鈴ちゃんは言った。
「先生はもっと上手に嘘がつけるようになった方がいい」、僕が部屋を出る時、鈴ちゃんはそう言った。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み