第2話

文字数 2,346文字


 帰りの電車の中で、スーツを来た男性が言ったことについて考えてみた。架橋としてのトンネル。隔てられた二つの場所を繋ぐのが架橋。架橋することによって、二つの場所が隔てられているのだと認識される。物は言いようだ。誤解から生じたまやかしを解くのが哲学の役割だとカントは『純粋理性批判』の中で書いている。たったひとつの真実という正解を設定すると、それ以外は間違いであり、正解に対して誤解が生じる。でも、たったひとつの正解など存在しなければ、誤解などなく、それは考え方の違いということに帰着する。村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』の主人公〈僕〉は「誤解などない。考え方の違いがあるだけだ」と言った。
 僕は高校一年生の時にカントの『純粋理性批判』を読んだ。きっかけは村上春樹だった。僕が通っていた高校には読書週間が設けられており、朝のホームルームと一時間目の授業の間の10分間を読書の時間に充てるという週が年に数回あった。一年生の冬の読書週間の時、隣の席で「読書の時間何読む?」という会話が始まった。
「どうしよっかな、私普段本読まないからな。英単語帳でも眺めてようかな」
「それって読書なの?」
「じゃああんたは何読むの?」
「わたし?村上春樹でも読もっかな」
「誰それ?」
「はぁ?知らないの?」そのはぁは僕が人生で見た最もはぁらしいはぁだった。
「うん。知らない。有名な人?」
「あんたさぁ、村上春樹知らないってトトロ観たことないって言ってるのと同じだよ」
「ちょっとバカにしないでよ。トトロくらい観てるから。そんなの非国民じゃん」
 その時僕は非国民だった。トトロを観たことはなかったし、名前こそ知ってはいたが村上春樹を読んだこともなかった。村上春樹に限らず小説を読んだことすらなかった。小説に限らず本そのものに縁のない生活を送っていた。読んでいるものと言えば世界史の便覧くらいだった。隣の席にいることがなんとなくばつが悪く感じられてきて僕は席を立って教室から出た。その日の放課後、学校の図書室に行って村上春樹の『風の歌を聴け』を借りた。その本がデビュー作であると知り、それを読むのが無難だと思ったからだ。
 それから『1973年のピンボール』を読んだ。そして、『1973年のピンボール』で主人公の〈僕〉が読んでいたカントの『純粋理性批判』が気になって仕方がなくなった。
 そして、『純粋理性批判』を読んだ。それはそれは意味の分からない文字の羅列だった。なにせ活字に触れること自体に慣れていなかったのだ。文章どころか単語が難しい。言葉の一つ一つが難しいことに加えてそもそも何について話しているのかが分からない。それでもまずは学校の勉強をひとまず終わらせてから毎日2時間くらい分からないなりに読み続けた。そうして何とか最後まで読み切った。読み切った感想は、「なんだかよく分からないことが書いてあるけれど、この人は僕の友達だ」というものだった。
 この世の中にはたったひとつの正解が存在しそれ以外は誤解であるのか、あるいは、たくさんの考え方の違いが存在しているのか、僕にはよく分からない。この問題に対する答えを僕は持っていない。
トンネルは「正解/誤解」と「考え方の違い」というこの二項を架橋できるのだろうか。よくわからない。僕に分かるのは、あのスーツ姿の男性が言っていたように、トンネルは必要だということだ。しかし、僕がトンネルに求めるのは安全かつ無事に通過できることだけだ。
短冊を取り出して眺めた。

『自殺論』が本屋大賞を獲りますように

 何度見ても確かにそう書かれている。それも間違いなく若菜の字で。若菜が中学三年生の時に『自殺論』を読んでいたことが信じられないし驚きでもある。仮に読んでいなかったとしたら何故短冊にこんなことを書くのか理解できない。いずれにしても、若菜の字で書かれているという事実は動かない。
 僕の知っている『自殺論』は一つしかない。デュルケムのそれだ。『自殺論』は大学の社会学概論の指定教科書の一つだった。もう一つはウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』だった。通称『プロ倫』。先生は「親御さんが心配するから実家生の人は家族の前では『自殺論』を読まないように」と忠告していた。家族の前だけに限らないのではないか、と僕は思った。
『プロ倫』の方はたしか「誰かが天職なんて言い始めたときから世の中が変わっていった」というような話だったと思う。違ったかもしれない。『自殺論』の方はもう少し丁寧に読んだ。いや、それなりに丁寧に読んだ。ゆみ姉にも釘を刺したように、これは自殺の指南書ではない。
「あなたにピッタリのガラスの靴はきっとこの世の中のどこかにはあるんだろうけど、それを探していると死んじゃうからとりあえずこの靴を履いてみんなでいい社会を作って行こうよ」
 むしろ自殺の指南とは真逆の方向にある。精神が参っている時に読むと涙が出てくるかもしれない。先生は社会学の研究方法としてこの本を紹介しているからこんな解釈は一切言わなかったが、僕の目には確かにそう書いてあるように見えた。そんなこと書いてないよとデュルケムは言うかもしれないけれど。「ガラスの靴なんてない」と言ってしまわない括弧性に僕は心を惹かれた。たったひとつの正解、僕はそれを求めているのかもしれない。
 若菜がどんな思いをこの短冊に込めたのかは分からない。でも、本屋大賞というのが絶妙だと思う。そこに若菜らしさを感じる。手に取ることのない本を手に取る。これも架橋だ。そう考えると、ますますこの短冊が不思議で謎で仕方がない。
短冊を眺めていて思った。日本語もアルファベットではない言語ではないか。気が向いたら飛鳥に電話をしようと思った。
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