第38話

文字数 2,856文字

38
 いつもランニングをしている公園に鈴ちゃんを誘って散歩に出た。スティービーとよく走った公園であり、若菜が出てきた夢の舞台でもあり、スティービーと再会した公園だ。
池を囲んだ庭園の遊歩道を歩き、山道を通って遊具広場に出る。池には鯉が泳ぎ、石の上で亀が甲羅を乾かしていた。石の上で動かずにじっと佇んでいる大きな鳥を指さして「あれは何だろう」と鈴ちゃんが言った。「青サギだと思う」と僕は答えた。たぶんそうだと思う。たまに出没するカルガモの親子を見ることはできなかった。鈴ちゃんは残念がった。冬に来れば見れる確率は上がる。雪が降る中でカルガモの親子が池を泳ぐ姿は風情があってなかなか良い。遊歩道の縁石に座って一時間は眺めていられる。
 遊具広場を抜けると、プールがある。10月のプールは当然閉館していて、誰もいないプールサイドは見事に静かだった。プールサイドには二台のセグウェイが廊下に立たされた生徒みたいに(そんな光景を見たことはないのだが)俯き加減に直立していた。プールサイドを利用したセグウェイの体験教室が不定期で開かれているらしい。
「このプールで泳いだことある?」と鈴ちゃんが訊いた。
「ない。泳げないから」
「へぇかなづちなんだね」
「でも泳いでいる人を見るのは割と好きで、あんな風に泳げたら気持ちいいだろうなって、ここを通るたびに思ってる」
 プールの隣にはグラウンドがある。野球とサッカーの試合が同時にできるほど広いグラウンドだ。グラウンドでは地元の中学校の女子ソフトボール部が練習をしていた。大きな声を出してキャッチボールをしているところだった。監督らしき人物は見当たらない。トイレに行っているのかもしれない。指導者がいなくても練習の手を抜かない。良いことなのだと思う。
 グラウンドの隅っこで中年の男性がリフティングの練習をしていた。
「あの人ね、いつも一人で練習してんの。どこかのチームに入ってるとかじゃなくて、趣味でやってるんだと思う」
「趣味でサッカーボール蹴る人なんているんだね」
「見るたびに上手になってるよ。リフティングの回数は増えてるし、ボールも遠くまで飛ばせるようになってる」
「一人でやってて楽しいのかな」
「たまに小学生の子と一緒に蹴ってる」
「先生も一緒にやればいいのに」
「いいよ、俺は」
 園内を一周し、僕たちはゲートボール場の真横にある東屋のベンチに並んで座った。スティービーと会った東屋とは別の所だ。
鈴ちゃんはジーパンとTシャツに紺色のパーカーを羽織っていた。ジーパンの裾は踝の少し上の高さでまくられていて、踝丈の靴下にスニーカーだったから素肌の足首が見えた。
「いつもこの公園を走ってるの?」と鈴ちゃんが聞いた。
「うん。だいたい5キロくらい。調子が良ければ10キロ」
「先生はどうして走ってるの?私にとって走るってきついイメージだから、何でわざわざ走るんだろうって」
「もともと走るのは嫌いじゃなくて、持久走も得意な方だったんだけど、運動しなくなるとびっくりするくらい体力が落ちてね、これはまずいと思って走り初めて今に至る感じかな」
「私も走ってみようかな」と鈴ちゃんが言うからつい鼻で笑ってしまった。「やめといた方がいいよ。どうせ続かないから」
 ここではいつもおじいちゃんおばあちゃんたちがゲートボールを楽しんでいる。冬には薪を燃やして暖をとりながら談笑している光景も見える。しかし、お昼過ぎのゲートボール場には誰もいない。午前中に競技を楽しんで昼前には解散する。家に帰ってご飯を食べて昼寝でもするのだろう。僕もそんな風に過ごしてみたい。
 東屋には冷水機があり、プラスチックのトレーがいくつか散乱している。誰かが野良猫に水をやるのだ。
「ここの前を走っているときに、急にそこの茂みから猫が飛び出してね、急ブレーキをかけて止まったら、猫もピタリと止まって、『あっどうも』って感じでお互いに目があって、ゆっくりとしゃがみこんだら膝の上にぴょんと飛び乗って来て」
鈴ちゃんは「あっどうも」と初対面の人に挨拶するように僕に軽く会釈をした。僕もそれに倣った。「そう、まさにそんな感じ」
「道のど真ん中だったからとりあえず移動したかったんだけど、あまりにも気持ちよさそうに乗ってるから動かすに動かせなくて、正座したままその場に止まってた。おまけにその猫重くて」
鈴ちゃんは笑った。「公園の歩道のど真ん中で猫を膝に乗せて正座してるって、想像しただけで変。もし私がその場に居合わせてたら怪しくて近づかないかも」
「実際に変な目で見られてたね」と僕は言った。
「それ以来その猫は自分と遭遇したら膝の上に乗るようになってさ。1時間くらいじっとしていて、そのうち何かを思い出したみたいにするりと降りて伸びをしてから去っていく」
「その間先生は何やってるの?」
「なーんにもしない。あまり撫でたりしないし、ただ眠っている邪魔をしないようになるべくじっとしているだけ」
「何考えてるんだろうね、猫は」と鈴ちゃんは伸びをしながら言った。
「ちょうどその時『吾輩は猫である』を読んでたから、お前のことは分かってるぞって言われてる気がしてね」と僕も伸びをして言った。
「夏目漱石って面白いの?」と鈴ちゃんは僕の方を向いて言った。その顔を見ると心臓がぎゅっとなった。まだ出会って数カ月なのに、化粧をしているわけでもないのに、なんだか少し大人になった気がした。
「きれいだと思う」
「きれい?漱石が?」
「漱石がきれい?」
「先生が言ったんでしょ」
「何の話だっけ?」
「だから、漱石って面白いの?」
「ああ、面白いよ」
「大丈夫?」と言って鈴ちゃんは前を向いて、両手の指を組み合わせてまた伸びをした。それから「来ないね、猫」と言った。
「私がいるからかな」
「かもね」と言うと、鈴ちゃんは僕の膝を叩いた。
「鈴ちゃんはまだ若いから。猫は老獪な膝を好むのかも」
「老獪って何?」と聞く鈴ちゃんに僕は曖昧な返答をした。
「先生だってまだ若いでしょ」
「若いどころかまだ生まれる前くらいだよ」
鈴ちゃんは顔をしかめて僕の顔を覗き込んだ。そして「何言ってんの」と言った。何言ってんだろう。
「なんか飲み物買ってくるね」と言って僕は立ち上がった。「何がいい?」と聞くと、「私も一緒に行く」と言って鈴ちゃんも立ち上がってお尻の砂を払った。
 芝生広場前の自動販売機でお茶を二本買った。東屋には戻らずに、自販機の近くのベンチに座った。僕と若菜が座っていたベンチだ。風は強くない。木々の葉はおとなしく空中に存在し、クローバーはしっかりと地面に根を張ってそこに生えている。どちらも何かを待っているように見えた。無人の鉄棒も何かを待っていた。逆上がりをする少年だろうか。いや、絵を描かれることかもしれない。
 鈴ちゃんは僕の肩に頭を乗せて「これが老獪か」と言った。僕はふんと笑った。「ねえ」と声をかけると頭をあげて僕を見た。僕はキスをした。鈴ちゃんは何も言わずにまた肩に頭を乗せた。僕たちはしばらくそのままでいた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み