第37話

文字数 3,460文字

37
そして翌日、僕はスティービーに会った。公園を走った後、僕は東屋のベンチに座って休んでいた。そこに夜警のおじさんがやってきた。竹内さんから家庭教師を頼まれたあの夜、「お引き受けしたらよろしい」と僕に言った、あの夜警のおじさんが。
 おじさんは僕の真向かいに座った。「久しぶりですね」と僕は言った。おじさんは何も言わない。僕と目を合わせようともしない。背中を丸めてただじっと座っている。「あの後」と僕が言いかけた時、「僕だよ」とおじさんが言った。スティービーの声だった。
「スティービーなのか?」と僕は訊いた。
「そうだよ」と彼は言った。「僕だよ」
訳が分からなかった。僕は何も言えなかった。彼も何も言わなかった。まさしく沈黙だった。「スティービーなのか」と僕はもう一度訊いた。そうだと彼は言った。笑いたかった。でも笑えなかった。「久しぶりだね」とスティービーは言った。僕はまだ言葉が出て来なかった。
「奈緒」とスティービーが僕を呼んだ。僕は彼を見た。でも続きはなかった。「どういうことなんだ」と僕は訊いた。
「僕が夜警のおじさんで、夜警のおじさんが僕なんだ」
「それはもう分かったから」
「信じてくれるのか?」
「信じるとか信じないとかそういう問題じゃない。訳が分からない。でも、お前が『僕だ』って言うんなら、そうなんだろう」
「奈緒、変ったね」とスティービーは言った。
「そんなことはどうだっていい。その姿は一体何なんだ?」
「圧倒的な老化ってやつさ。僕に分かるのはそれくらいだよ」
スティービーが何を言っているのか分からなかった。当然受け入れられない。それでも話を進めなければならない。
「今まで何をやってた?」
「こんな姿になってからは、人に会わないように隠れて過ごしてたよ。特に知っている人にはね」
僕はため息をついた。
「なあ、あの日会ったのもスティービーだったのか?」
「そうだよ。あの時から僕はこうだった」
「声は?そのままか?」
「声は変わっていない。このままだよ」
「どうして気がつかなかったのかな」
「あの時奈緒は相当気が滅入ってたからね」
「仮にも友達だぞ。それに、今だって気が滅入ってる」
「仮にもってひどいな」とスティービーは笑った。
「じゃああの時お前はその声のまま俺の隣にいたわけだ。つまり、スティービーとして」
「そうだ。僕は僕であることを特に隠そうとは思っていなかった。でも僕であることを告げる勇気もなかった。何せこんな姿になってるわけだから」
「なあスティービー、圧倒的な老化って何だ?」
「僕にもよく分からないんだよ、どうしてこんな姿になったのか。でも僕はこんな年老いた姿になっている。僕はまだ19だ。圧倒的な老化としか言いようがない。いいや、何でこうなったのか、自分でも分かってる。でも説明はできない。何が起きたのかは自分でも分からないんだ」
「何をしたって言うんだ?」
「僕が何をしたかの話は止めよう。言っただろ、説明できないって。ただ、こうなってからというもの、僕には身体が無いんだ。骨も筋肉も関節も、臓器も細胞も、何もかもがない。いや、なくなったんだ。今まで感じ取ることができていた身体を何一つ感じ取ることができなくなった。ただただ何かしらの塊がここにあるっていう感じだよ。わかるかい?この感覚」
分からないと僕は答えた。「でも僕はスティービーの身体を見ている」
「見た目には見えるさ」と言ってスティービーは自分の手の平を眺めた。それから手の甲を。「だけどこうして目に見える手は僕の手じゃない。僕はこの手を僕自身の手として感じることができない。僕は僕自身の外に立って誰かの手を見ているような感覚がするんだ。自分が自分を見ているんじゃなくて、自分を他の誰かとしてみているような感じだよ。そして自分を他の誰かとしてみているような感じだけが存在している。そんな意識だけがただある。しかも僕の外に」
「ねえ奈緒」とスティービーは言った。「僕の言ったことが分かるか?」
「分からないよ。けど僕にも自分が自分じゃないように感じたことはある。それについてはわかる」
「わかる?分かってもらっちゃ困るんだよ」とスティービーは言った。「それじゃあ僕の唯一無二性はどこにあるって言うんだ?」
「唯一無二性?」
「僕が僕であることを証す何かだよ。人間一人一人が異なる体を持っている。身体がなくなった今、僕が僕であることを証明してくれるのは、僕を僕だと感じ取れない僕の外にある意識だけなんだよ。それだけが唯一僕が僕であることを証明してくれる。奈緒が思う自分が自分じゃないという感覚は僕のそれとは違うんだよ」
「そりゃ違うさ。人が違うんだから。俺はスティービーじゃないし、スティービーも俺じゃない。スティービーがスティービーであるにはそれで十分じゃないのか」
「奈緒は大人だね」とスティービーは言った。
「大人?どこが?」
「僕はそんな風に割り切れない」
「割り切ってるんじゃない。そういう風に考えようとしているだけだ」
「やっぱり大人だよ」
「大人じゃない」
風船から空気が漏れるように僕の言葉は出てきた。大人じゃない。そして消えていった。
「僕は振舞うことを止めたかったんだ」とスティービーは言った。「ひとつひとつ身につけた振る舞いを消していきたかった。そうした一つ一つの振る舞いが、僕が僕であることを妨げている。これまでに出会った人、これまでに経験した出来事、これまでに身につけてきた何もかもを否定したかった」
「その結果がその姿なのか?」
スティービーは下を向いて何も言わなかった。
「なあスティービー、開脚教室に行った後あんなに嬉しそうだったじゃないか」
スティービーは顔をあげた。そして言った。「教室に参加して奈緒はどう思った?」
「経験したことのない世界だったよ。あらゆる可能性に開かれたニュートラルな状態なんて言葉はそれこそ魅力的だと思ったよ」
「それだよ。あらゆる可能性に開かれたニュートラルな状態。僕はまさにそれを目指したんだよ」
「ひとつひとつの振る舞いがそのニュートラルな状態を妨げている、だからそれを消し去ろうとしたってわけか?」
「そういうことになるのかもしれない。ニュートラルな状態の僕こそが僕である。それ以外は嘘だ。僕は僕になりたいと思った」
僕はスティービーの言ったことについて考えた。スティービーは僕の言葉を待っていた。
「でもそれだと」
スティービーは僕を見た。
「ニュートラルな状態ではない自分は自分じゃないということになる」
「そうだよ、それは自分じゃない」
「それはちょっとずるいんじゃないか」
「ずるい?」
「ある種の責任放棄だよ。それは私じゃありませんってね。さっき言ったように、あらゆる可能性に開かれたニュートラルな状態という言葉はすごく魅力的に感じたよ。実際に先生の手に触れてその凄さも体感できた。だから開脚もニュートラルな状態も否定しない。だけど、それだからと言って、ニュートラルな状態こそが自分なんだとは言えないんじゃないか。ニュートラルじゃない自分だって自分なんだよ」
「奈緒、それこそ責任放棄だよ。本当の自分を見ない自分を正当化している」
僕はまた少し考えた。
「自分に本当も嘘もないんだよ、きっと。もし今の自分が本当の自分じゃなくて、本当の自分になりたいのなら、そんな自分が見つける自分なんて信用に足るのか」
「それだって本当の自分を前提に置いてるじゃないか」
「そうだよ。本当の自分は本当の自分を前提に置かなければいけない。でもどうしてそれが本当だとか嘘だとか分かるんだ?それこそすごい力を持った自分じゃないか。消し去る必要なんてどこにもない」
「そうじゃないんだよ、奈緒。僕は力が欲しいんじゃない。力を手に入れようとする自分がそもそも自分ではなかったという事実に愕然としたんだ」
「同じことの繰り返しだよ、スティービー」
スティービーは黙り込んだ。
「飲み物を買って来るからちょっと待っててくれ」と言って僕は東屋を出た。自販機に向かったが、僕は一人分の飲み物代しかもっていなかった。微糖の缶コーヒーを買って東屋に戻ったが、スティービーはいなかった。
 僕はまた東屋のベンチに座った。一時間、いや、二時間、それ以上だったかもしれない。起こった出来事を整理する気にもなれなかった。スティービーとの会話を反復しもしなかった。ただただそこに座っていた。
開けないままの缶コーヒーをその場に残して僕は帰った。
 家に帰ってからゴミ箱を取り出した。捨てようと思った。でも思いとどまって止めた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み