第35話

文字数 1,360文字

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 僕はまだお腹が空いていなかった。傘をさして駅を出て、マクドナルドに入ろうとして止めた。入口に立って店内を見た時、何を頼めばいいのか分からなかった。コーヒーはもういらない、ジュースやシェイクの気分でもない。僕は駅に戻った。
 駅構内にはベンチらしいベンチがない。みんな、座れそうな所に座っているだけだ。座れそうなところはもう空いていなかった。
 なんだが、落ち着かない気分だった。意味もなく構内を歩いた。コインロッカーを見つけて、どんな人がどんな目的で利用するのだろうかと思った。
 コレットに入って本屋に行った。30分ほどぶらついて外に出た。雨はまだ降っていた。歩いて帰ることにした。

 その夜聴いた声はこんなものだった。

幼稚園の年中さんの男の子に「どんぐりのはりとはちのはり、どっちがいたいかな?」と質問されたことがあります。これはもう、蜂ですね。
 みなさんは蜂に刺されたことがありますか?僕はあります。正確には蜂かどうか分からないのですが。というのも、刺された箇所が背中だったので刺したやつの正体を見ていないのです。
 八月のある日の午後七時前、辺りが暗くなりかけた小道を自転車で走っているときに、いきなり背中にズドンと衝撃を感じました。初め、鷹とか鷲とか、大きな鳥に足で思いっきり蹴られたのかと思いました。それぐらいの衝撃でした。すぐさま首を振って周りを見たけど鷹も鷲もいない。烏も雀もいない。鳥ではない。
 次に思ったのは、カブトムシかなということでした。鳥の足で蹴られたと思ったのは、同時に四つの鋭い何かで攻撃された感じがあったからなのですが、どうやら鳥ではない。となると、カブトムシがものすごい勢いで背中に突進して来てひっついたのかもしれない。自転車を止めて恐る恐る背中に手をまわしてみるが、そこには何も止まっていない。
 あー良かったと安心して自転車を漕ぎ始めたのですが、やっぱり背中が痛い。再び自転車を止めて、シャツを一枚脱いで背中に直に手をやるとぷくっと腫れている。針で刺されたらしき痕跡がある。でもそれは一つしかない。ああ、蜂だ、と観念しました。
 それにしても痛い。すごく痛い。刺された箇所を中心にして鈍痛が周辺に広がって行く。背骨から伝わる神経が機能不全に陥っているのではないかと心配になっていたので、刺されたことをきっかけに身体の器官が有機的に働き始めてくれたらいいな、なんて思ったりもしましたけど、とにかく痛い。
 空が暗くなりかけている中で自転車から降りてシャツを脱いでいる僕に小さな男の子を連れた母親はこの人は一体何をしているのかしらという視線を向けていましたが、ごめんなさい、でも怪しいものじゃないんです、何かに刺されてそれを確認しようとしているだけなんです。
 そういう心の中の弁解すら嫌になる程気持ちが萎えていきました。たしかに黒い服を着ていたけどなにも刺さなくたっていいじゃないか。そう思いながら自転車をこいで家路につきました。
 なにが言いたいかといいますと、あまり人通りの少ない道ばかり通るもんじゃないということです。一人で刺されて一人で苦しむのはちょっと寂しい。「大丈夫ですか?」と声をかけてくれる存在というのはきっとものすごく大切なんだと思います。
 ところで、どんぐりの針って何ですかね。
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