第1話 第2章

文字数 3,143文字

 小学生程度の球なら取れる、そう信じて息子とキャッチボールをして来たのだが、夏を経て秋となり塁の球威は上がり、取るたびに左腕の古傷に少し響く。ここまで成長した喜びとこの先置いていかれる寂しさに顔を歪めていた時、

「青木さん、おはようございます」

 深まりつつある秋に相応しい涼しげな声に思わず振り向く。グラブに収まったはずのボールが落ちる。陸の母親は、今日はサングラスをしていなかった…
 言葉が出ない。おはようの一言が出ない。会釈すら出来ない… 駄目だ。言葉が出ない。
 彼女の瞳から、目が離せない。
 あの真夏の炎天下での邂逅以来、久しぶりに彼女を見た。薄手の上品なセーター、細身のシルエットのジーンズ、品のあるパンプス、そして…
 初めて見た彼女の瞳。アーモンド型の高貴な目元、見るものを跪かせてしまう美しい目元。眩いばかりの彼女の美しさに僕は口をポカンと開けたまま彼女を凝視し続けている。

 そんな僕を不思議そうに見つめながら、彼女は
「塁君、ピッチャーやるのですってね、凄いですね」
「いや、あ、ありがとうございます」
 何を言ってるのだ、お礼じゃないだろ、陸君も頑張っていますね、だろ…
 彼女は軽く会釈をし、ママ友の方へ向かった。またあの冷たい汗が脇の下を濡らす。顔は耳まで真っ赤なはずだ。鼓動がさっきまでキャッチボールをしていた塁にも聞こえているのではないだろうか…
「父さん、陸のママって、中谷美紀に似てるよね、父さん大好きだもんね」
「うるさい黙れ。そう言えばお前、家のパソコンの履歴に、巨にゅ…」
「あーーーーーーー、やめてやめてやめて」
 小四の塁に僕の動揺が伝わる事は無いとは思うが、念のために話をはぐらかす。

 今日は秋の新人戦。この地域の特性で半数以上の子がリトルは小四の秋までの活動で、冬からは中学受験に備えて塾の日々が始まる。従ってこれが大半の彼らの小学生野球生活の最後の晴れ舞台なのだ。
 僕の頃とは大分勝手が違う。中学なんて公立だろ? 勉強は中三の夏から、などという自分の嘗てと今とでは縄文と弥生位違う。狩猟民族と農耕民族くらい違う。例えが意味分からないくらい違う。
 そこそこ意識の高い親は、当然のように子供を私立乃至は中高一貫の公立中学への受験に誘う。子供自身も仲の良い友達が四年生から塾に行き始めるので、じゃあ僕も私もとそのルートに乗って行く。
 子供にとっても親にとっても、この中学受験という冬の時代の到来は相当な覚悟が必要だ。習い事も家族旅行も当分お預けだ。それ故、この秋の最後の大会は子供も親も、凄まじいテンションとなるのを去年目の当たりにしていた。
 そして、その時が、来た。

 僕のこのチームでの立ち位置は相変わらずである。元高校球児、甲子園球児。激闘の末甲子園出場を決め、大会直前の練習試合で左腕開放骨折という大怪我をしてしまい、未だに左腕に障害が残り、故にこの肩書きも厳密には甲子園スタンド球児であった。
 このチームの若いコーチは都大会二回戦止まりの弱小校出身で、大学時代も野球サークルの経験しかない。従ってチーム戦術などは野球名門校出身の僕を頼ることが多々あり、最近では僕も積極的にアドバイスをしている。
 そんなアドバイザーとしての視点からこのチームを語ると、以下のようになる。
 五、六年生の高学年の選手が少なく、従って戦術、パワーで他のチームと大きく見劣りがするものの、チームの連携に優れモチベーションも高く、街レベルの大会ならば上位を狙えなくもない。
 要は、受験勉強で中心選手が多々抜けてしまうものの、お調子者も多く元気でノリがいいので街の小さな大会なら一回戦くらいは勝てるかもね、である。
 僕が本格的にコーチに就任し、千本ノックに千本ダッシュを重ねて行けば街レベルなら楽勝で勝ち抜けるだろうが、このチームの父兄でそれを望む家庭は無く、それを望むなら他のチームに行くであろう。
 子供の試合の勝ち負けよりも、どちらかと言うとセレブな親たちのサロン、みたいな雰囲気が蔓延しており、現に保護者達はほぼ富裕層である。駐車場には外車やレクサスがずらりと並び、相手チームへの圧力は半端ないものを醸し出している。
 因みに僕の車も、レクサスの中クラスである。

「何とか今年は三回戦くらいまで行きたいっすね」
 若いコーチは僕に呟く。
「塁のストレートに期待したいっす」
 彼の采配が吉と出るか凶と出るか…
 よくスポーツの世界で「遺伝子」という言葉が囁かれるが、確実にそれは存在する。僕は高校時代、強肩強打のキャッチャーだったので、塁が小四とは思えない速球を投げ込んでいても、まあ、吾郎クンほどじゃないですがね、と嘯ける。
 だが経験者はよくご存知であろう。強肩イコール良い投手では無い。むしろ強肩は要らない。投手に最も必要なのは「制球力」即ちコントロールである。
 その事をコーチに幾度となく伝えてきたが、
「いや。塁ならやってくれますよ、だって甲子園球児の息子なんだから」
 だから、甲子園スタンド球児だっつうの…
 そんな適当な采配で始まった試合は、初回から塁のフォアボール連発でテンポの悪い展開となる。球は速いので痛打を浴びることはなかったのだが、押し出しの連続で初回に三点を失う頃には遺伝子が確実に存在する事を父として再認識していた。
「まだまだ! これからだぞ!」
 若いコーチの叱咤激励に応え、その裏に二点を返す。保護者達もセレブトークを中断し、応援に熱狂している。
 次の回も、その次の回も二点ずつ失い徐々にチームに諦めムードが漂い始める。四回の表、なんと四連続押し出しで四点を失い、塁はマウンドを降りる。打たれたヒットはゼロ、四死球は数えきれ得ない程。
 夏までエースだった子がその後踏ん張るが、打線がすっかりしょげ込んでしまい、五回裏の攻撃が0点に終わり、彼らの秋は終わった。すなわち大半の子の小学生野球は終了した。

 少年達は皆号泣している。そんな彼らに一人ずつ声をかけながら若きコーチも涙を憚らない。僕は鼻の奥がツンとなるも、涙を流すには至らない。
 泣きじゃくる塁をやはり泣きながら慰めているもやしっ子の構図をそっと携帯の写真に撮る。ふと見ると、陸の母親も上品なハンケチでそっと涙を拭っている。
 その姿を見て、突然僕の目頭は熱くなり、気がつくと大粒の涙を流していた。
「青木さん、すんませんでした、もっと早く塁を代えてやれば良かった…」
 真っ赤な目でコーチの滝沢くんが僕に頭を下げる。
「滝沢くん、お疲れ様。今まで色々ありがとう。」
 僕はそっと右手を差し出すと滝沢くんが僕にしがみ付いてくる。
「こっちこそ、色々ありがとうございましたっ あんなに色々教えてもらったのに、こいつらを勝たせてやれなくって… 俺、コーチ失格っす」
「そんなことはない。見てみなよ、この子達…」
 滝沢くんが顔を上げて彼等を見回す。子供達の美しい涙は晩秋の太陽に照らされてキラキラ光っている。
「みんな一生懸命やったんだし。負けて悔しいこの気持ちはさ、この先の彼らの人生の良い思い出になるよ、間違いなく。」
 滝沢くんは鼻を啜りながら頷く。
「それに保護者達。みんな一緒に泣いてるよ。誰一人君の責任を問う人なんていないさ。むしろ感謝だよ。そう、僕も含めて。」
 僕は改めて彼に向き合い、
「本当にありがとう。息子に貴重な体験を与えてくれて、ありがとうございました。」
 深く頭を下げる。
「これからも、頑張ってな。また春の紅白戦、楽しみにしているよ」
「はい。また春に再会できるのを楽しみにしてます、ってか。ちょいちょい練習見に来てくださいよー」
「あはは、わかったわかった。」

 こうして、冬到来前の束の間の平和な秋が終わった。筈だった。
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