第5話 第3章

文字数 1,641文字

 一人でトイレに歩いて行けるようになった頃、すなわち事件から一週間後。僕は警察の取り調べを受けることになる。そして更なるショックを受けることとなる。

 貴和子は遺書がわりに、僕との赤裸々な関係を日記風に纏めたものを何冊も自宅の机に残していたのだ。そこには何月何日にどこで僕と何をしたかが克明に記されており、刑事はコピーした物を両手一杯に抱えている。
 そしてお疲れの所申し訳ありませんが、事実確認のご協力を、つまりそれが事実かどうかを次々に僕に尋ねていく。

「…それでは、四月七日。いつものホテル、えーと、山の頂ホテルですよね、で二回。間違いありませんか?」
「間違い…ありません…」
「では、九月十二日。青木家で直ちゃんとお茶。貴方に写真を渡す。これについては?」
「はい…その通りでした。」

 刑事は済まなさそうな顔で、
「青木先生、すいませんね。一応裏を取れって上から言われてましたので… この辺で結構です。」
 大きな溜息を吐く。疲れた。己の情事を二十年分取り調べられた気分だ。
「あの、ご覧になりますか? 特に最後の日誌の後ろの方に、あなた宛の遺書らしき文章があるのですよ」
 僕はひったくるように日記のコピーを掴み、慌てて最後の頁をめくり出し、一気に読む。そしてそこに、今回の事件の真相が書かれていた。

あなたは田中真木子に心を奪われてしまった。いいや違うー田中真木子と出逢ってしまった
私もナオちゃんも残念だけどあなたの運命の人ではなかった
あの女は本当にあなたの運命の人なの?
田中真木子があなたの運命の人なのかどうか、私は命を賭けて、問うてみたい
もしあなたが死んだら、天国であなたに謝るよ
もしあなたが生き延びたら、あの女は運命の人なんだよ
どちらにしても今夜でさようならだね
大好きでした 愛してました あなたと過ごせた日々を地獄にいても永遠に私は忘れない

 日記のコピーを何度も読み返す。何度目からは涙で滲んでよく読めなくなる。やがてしゃくり上げて泣いてしまい、刑事は暫し席を外してくれる。

「どちらにせよ、青木さんに容疑はかけられていません、最初から。包丁からは彼女の指紋しか検出されませんでしたし。青木さんは純然たる被害者。彼女は加害者。これが真相と我々は認識しております。」
「はあ…」
 としか言いようがない。やるせない。
「被疑者死亡により捜査はここまでです。ご協力ありがとうございました。青木さんのスマートフォンをお返しします。現場に落ちていたので証拠品として保管しておりました。」

 そう言いながら僕のスマホを茶封筒のままテーブルにそっと置く。
「あの…」
「何か?」
「捜査が全部終わった後、この日記を僕に頂けませんか?」
「うーーん、どうかな。事件の証拠品だからねー。すぐには無理ですよ。証拠品保全期間が過ぎたらー 申請してみてくださいよ」
 僕は刑事に頭を下げる。二人の刑事も軽く頭を下げ、最後に捜査協力のお礼を言って病室を静かに出ていく。

 僕はソファーから立ち上がり病室の窓から外を見る。季節は秋から冬に移りかけている。イチョウの葉は黄色く色付き、街ゆく人は寒そうに首にマフラーを巻いている。
 不意に彼女の顔が思い浮かぶ。今彼女はどこで何をしているのだろう。ソファーに戻り、警察から返却された僕のスマホに充電ケーブルを差し込み、電源をオンにする。
 画面にポップアップするのはラインとメールだけ。Mは浮かび上がらない。
 
 溜息をつきながら、ラインをタップする。娘の華から数通のメッセージ。どれも僕に対する罵詈雑言に満ちている。自分が今周りからなんと思われているか。学校に行くのが辛くて堪らない。ママを裏切ったことは一生許せない。二度と家族の前に顔を見せないで。等々。
 息子の塁からは、たった一通。母さんと華が父さんと連絡してはいけないと言うので、お元気で。さようなら。受験頑張って甲子園目指します。涙が一雫。
 妻からは連絡して欲しいとの事。

 この数日で一番大きな溜息が出る。お腹の傷がズキンと痛む。
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