第1話 第3章

文字数 3,235文字

「青木さん、陸が塁君と一緒にお食事したいと。ご一緒に如何ですか?」

 僕が駐車場でタバコを吸っていると、陸の母親がそっと僕に近づき、囁いた。
 思わず僕は指に挟んでいたタバコを落としてしまう。
「え? 塁が陸くんにそんな事を?」
 彼女は眉を顰め、
「いいえ。陸が、塁君と、ですわ。」
 久しぶりに頭が真っ白になる。まさか彼女と一緒に食事を?
 僕が目を見開き硬直していると、
「やはりご迷惑ですよね、コーチと一緒にお食事なんて。すみません、忘れてくだs―」
「ハイ! 是非、ご一緒に!」
 気がつくと僕は川の向こうの川崎市の方々にも聞こえるほどの大声を出していた。
 彼女は気まずそうな、もとい、迷惑そうな顔で、
「ちょっ… 声大きいです… 他の親御さんに知られちゃいます…」
 僕は変わらず大声で、
「申し訳ありません!」
 深く頭を下げる。顔中に血が集まり熱って仕方がない。
「だから… えっと、玉堤通り沿いのロイホで待っていますね、では!」
 そう言うと上品に陸を呼び、さっさと高級車に乗って行ってしまった。
 取り残された僕は呆然と立ちすくみ、これは現実なのか夢なのかすっかり分からなくなっていた。
「父さん、声でかっ で? どこで食べることになったの?」
 塁が僕をウザそうに見上げながら言う。ああ、夢ではなさそうだ…

 慌てて塁を車に乗せ、急発進で王族御用達ファミリーレストランに向かう。信号待ちで妻の直子に塁と食事をして帰る、とメールする。彼女は今日は夜勤で朝帰りだったのでまだ寝ている頃だろう。
 やがて前方にファミレスが見えてくる。同時に心拍数が上がってくる。駐車場に車を入れるとほぼ満車状態だったが、なんとか停めることができ塁を急かせて店に駆け込む。
 彼女と陸は一番奥の目立たないボックス席にひっそりと座っていた。
「父さん、大声出すなよ。」
 塁のアドバイスがなければ、厨房まで聞こえる大声で
「遅くなりました、すみません」
 と絶叫していただろう。息子の聡明さに救われる。
「こちらも今来たところです。席が空いていて良かったですね」
 ニッコリと笑顔で応える彼女に、更に心拍数が上昇する。
「すみません、陸がどうしても塁君と食事したいと…」
 陸を見ると既に塁とお喋りを開始している。本当に仲が良いんだ。フッと笑顔が溢れると同時に心拍数が下がり、ようやく席に着くことができる。

 正直、何を注文したのか全く覚えていない。ウエイターが運んできた水を一気飲みし、彼女がビックリした目で僕を見ていることに気づきまた心拍数が跳ね上がる。
 そんな状態なので僕は彼女に話しかけることができず、気まずい空気が流れる。彼女も僕に話しかけることもなく、陸と塁の話を目を細めて聞いている。
 塁が中学は僕と同じ学校で甲子園を目指す、と話した時、初めて彼女が僕に話しかける。
「青木さん、野球されていたのですか?」
「ママ、言ったじゃん、僕。ルイのお父さんは昔甲子園で大活躍したんだって!」
 いやいやいや… スタンドで見ていただけなのです…
「わー、凄いですね! え? 元プロ野球選手とか?」
「だからママ、言ったじゃん、今は超有名な作家さんなんだって!」
 いやいやいや… 超ではありません…
 彼女は目を輝かせ、
「えっ! 本当ですか?」
「まあ、大昔の話ですよ…」
「凄い! 元甲子園選手で、それからサッカー選手なんて。スポーツ万能なんですね!」
 天使が通り過ぎる。特に子供二人の唖然ぶりは今思い出しても吹き出せる。
「サッカ… きゃはははー 陸ママ、めちゃ面白い! きゃははは」
「でしょでしょ? ウチのママ、本物の天然でしょ、」
 僕は未だにショックから立ち直れず、硬直している。
「え、あの、違うんです、か?」
 陸が笑い泣きしながら、
「だーかーらー。作家。物書き。だってば!」
 彼女はパッと顔を綻ばせ、
「ああ、作家、さんなんですね! 失礼しました。」
 僕は照れながら頷く。
「って、えええ! 青木さん、作家さんなんですか! すごーい!」
 彼女のこの独特なタイミングに僕はすっかり翻弄され始める。どうやら心拍数は平常時の値に落ち着いてきたようだ。
「どんな本を書いているのですか?」
「ずっと昔に、」
 話し出したタイミングで食事が運ばれてくる。子供達の歓声が話を終わらせてしまう。

 味がしない。味覚を感じない。こんなことは生まれて初めてだ。僕は最近、雑誌に食レポみたいなコラムを書く程、食べることが好きである。
 だのに、今。何を食べているのかさっぱり分からないのだ。目の前の女性に全てを奪われ、自分が箸を使っているのかフォークを使っているのかさえ分からない状態である。
 仕事柄ちょっとした女優や芸能人と共にする機会がたまにあるが、これ程心惹かれる女性と相対したことはなく、これ程心奪われる女性は正直初めてである。
 女性には慣れているつもりだしそこそこ色々あったものだが、ここまで自分を出せずに緊張しっぱなしの状態になるのは人生初の経験だ。
 そんな僕を尻目に息子の塁が彼女と色々会話している。僕は息子に初めて嫉妬する。
「あー、これから塾ばっかり。めんどくせー」
「陸と一緒に、頑張ろう。ね!」
「えー、陸は成績いいからいいけどさ。俺、まだS3なんだよねー」
「陸だってまだS2よ。一緒に頑張ってS1に行こうよ!」
「S1? ムリムリ。だって俺、父さんの子だし。」
「お父さんの子供なら大丈夫じゃない。だってお父さん作家さんなんだよ。」
「サッカーじゃないよ」
「もー。塁君、ひどい!」
 彼女が口を窄める。可愛い。初めて見る可愛さに目眩を感じる。やるじゃないか、息子よ。お前への嫉妬心はひとまずグッと堪えてやろう、だからな、もっと掘り起こせ! 彼女の魅力を俺に見せてくれ!
 こんな調子で僕は人任せで彼女の魅力を徐々に理解していく。天然。ボケ。少女のような仕草。気がつくと目の前の食事はすっかりと冷え切っている。

 結局僕と彼女の会話は殆どなく。デザートを終え、会計を別々に済ませ、
「それではお先に。失礼します」
 ニッコリと笑いながら彼女は陸を連れて帰っていく。僕は外の喫煙所でタバコをふかしながら、彼女との食事を思い起こす。
 日差しはまだ暖かいのだが、急に冷たい川からの風が僕の紫煙と僕の心を遠くに吹き流していった。

「田中さんとお昼食べてたんだって?」
 帰宅後、ついさっき起きたばかりの直子が洗い物をしながら背中で言った。
「すっごく綺麗な人でしょ? 旦那さんは大手の商社マンなんですって。で、田中さんご本人は開業医の娘さんで、陸くんをドクターにしてさ、ご実家のクリニックを継がせたいんだって。あは、あたしも雇ってくれないかな。」
 そうなのか。さすがママ友情報、よく知っている。
「何だか話ずらい人だよ。顔も綺麗すぎて、ちょっとあれかなあ。」
 それは正直な感想だ。
「んふふ、顔が綺麗な人、苦手だもんねマサくん」
「じゃ、お前も苦手だわ」
「はあ? そーゆーのいいから。あ、机の上のお皿とってくれる?」
 直子が元モデルだった僕の前妻の話を振る時は、僕に疚しい事がある時。何かを見透かされているのだろうか。
「でもすごく気さくでいい人よ。顔が苦手なら目でも瞑って話せば?」
「怪しすぎるな、通報されちゃうよ」
 やはり暗に近寄るな警報の発令か。
 大丈夫だよ。こんな、売れない古の作家なんて彼女程の女性が相手にしてくれる筈も無い。年収で妻に遥かに劣り、仕事よりも家事に勤しんでいる男なぞ、彼女にふさわしいはずがない。
 かつて僕は一瞬の輝きに目が眩み、多くのものを失ってきた。偶々巡り合わせた運を己の実力と勘違いし、そうではないと気づいた時には転げ落ちて地の底に這いつくばっていて、そして未だそこでもがき続けている今。
 何とか底辺から這い上がろうにも、その衝動すら湧いてこない。

 今はただ二人の子供の成長の邪魔をせず、妻に縋り、社会の片隅でひっそり息をさせて貰えれば、それでいい。それで、いい。
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