第2話 第8章

文字数 3,014文字

 弥生も終わりに近づき、間も無く卯月がやって来る。春雨前線が長らく停滞しており、このところずっとじめじめとした日が続いている。
 今日も残念ながら小雨が朝から降り続いており、若干気温も低く、ニットが手放せない状況である。
 どうも彼女と二人きりに会う日は天気がすぐれない、そう言えば初めてちゃんと会話しメアド交換した日も大雪だったな、自虐的に思い返してみる。
 それでも春は確実にやってきており、街の桜の木にはポツポツピンク色が見え始めており、雨に濡れていれど道ゆく人々は微笑みながらそれを眺め去っている。

 初の二人きりのランチは二子玉川から車で十分ほどの蕎麦屋。グルメ系の仕事をした時に気になっていた、老舗では無いがそれなりの雰囲気のある店構えとメニュー。僕のオススメの店に連れて行って欲しいという事で、この店の情報をメールし、承諾を受ける。
 五台ほど停めることの出来る駐車場は僕が駐車して後二台余裕がある。彼女の車はメルセデスなので狭くて駐車しづらいのでは、と懸念する。その旨をメールする。
 約束の時間の十分前に暖簾をくぐる。
 スマホでニュースを読んでいると、この蕎麦屋にピッタリな装いで彼女が入ってくる。髪は蕎麦を食べるせいか、ポニーテールだ。僕のツボである。

「連絡ありがとう。駐車場、難しかった…」
「お疲れさま。どお、この蕎麦屋?」
「素敵なお店じゃない。でも若い子にはあまりウケないんじゃないの?」
「だから… 僕若い女の子が好みだなんて言ったっけ?」
「怪しー。でも私はこのお店の雰囲気好きだなー」
「よかった、気に入ってくれて。」
「で? 私は何人目なの、このお店に連れてきたの?」
「だからー、初めてだってこのお店。」
「怪しー。」
 最初から何故か疑いの目モードな彼女であった…

 二人きりで会うのは二回目なのだが、緊張が止まらない。下手をするとメニューを持つ手が震えてしまう程に。だが今日の彼女は非常に陽気で、色々な話を振ってくるので僕の緊張は徐々に解されていき、気がつくとお喋りに夢中になっている。
 余りに話が弾んでしまい、みかねた店員が注文を取りに来るもまだ何も決めておらず、苦笑いされてしまう。
「もう、青木さんお喋りだから。店員さん困ってるよ」
「えええ? それ田中さんが言う?」
 僕らは顔を見合わせ互いに吹き出す。一体この哀れな店員さんには僕らがどんな関係の二人だと映るのだろう。
 この店の一押しの二八蕎麦に、天ぷらと筍の煮物を別に注文する。
「青木マサシ、調べちゃった。原作の映画、私見たよ。」
 そう話す顔が嬉しそうなので、
「じゃあ原作も読んでくれた?」
「読んでない… 大丈夫、今年中に読むからっ」
「え… 今月中でしょ…」
「えええ、ムリー」
 このはしゃぎっぷり。初めて見る彼女の一面。とても塾前の富裕な男達を見惚れさせる美魔女の姿からは想像もできない。今日は色々な彼女の一面が垣間見れそうだ、僕の作家本能が全開になって行く。

 運ばれてきた二八の蕎麦を彼女はそれはそれは上品に啜る。相当育ちの良い家庭に育ち、恵まれた環境で過ごしてきたのだろう。思わず見惚れていると眉を顰め、
「すっごく食べづらい!」
 すみません申し訳ありません。努力はしますが保証は出来かねます。それぐらい貴女は僕には眩しいのです。そう心の中で頭を下げる。
 彼女の仕草は一々美しい。蕎麦を箸で掬う様。箸を箸置きに置く様。お茶を啜る様。日本舞踊か茶道を本格的にやっていないと身に付かない佇まいである。
「両方。今はどっちもご無沙汰かな。陸が受験だしね」
 見惚れてはいたけれど、気がつくと僕の方が先に食べ終えている。あれ… 全く味を覚えていない。どんな味だったっけ…
「うん。汁はちょっと濃いかな。だけどお蕎麦はシャッキリしていてなかなかじゃない。」
 凄い。僕の知っている女子、特に貴和子なんかはどこで何を食べさせても、「すっごく美味しいです」と必ず言う、さながらそれが礼儀作法かのように。
 こんなガチの感想を聞かされるとは思わなかった。やはり生半可な店には連れていけないな。さすがセレブな生まれ育ちの女性である。
「でもこの間信州で食べたお蕎麦は本当に美味しかったな。また行きたいな。いつか連れて行って欲しいな」
 こんな爆弾をぶち込んでくるとは。こんな風に言われて「それは無理です」なんて言える男性がこの世にいるのだろうか。
「信州って長野でしょ? 日帰りだとちょっと厳しいんじゃない?」
「あああー、それってお泊まりじゃないと連れて行かないってこと? やっぱり青木さん相当遊んでるなあ、危ない危ない…」
 いやいやいや、危ないのは貴女ですから。その気のない男性を数分でその気にさせる、非常に危険な女性ですから…

「で、今日はお仕事?」
「は? いや、今日は仕事ないから、こうして…」
「そうじゃなくて。奥さんの方!」
「あーー、うん、今日は日勤。そういえば田中さんのご実家は病院って聞いたけど?」
「ああ、小さなクリニック、山手の。祖父の代からの。」
「ふーん。田中さん、医大とか考えなかったの?」
「田中さんって… まあいいけど…」
「えー、じゃ何て呼べばいい?」
「そういうの慣れてそう。怖い怖い。」
「いやいやいや… じゃあ、真木子さん?」
「んーーー、なんか違う…」
「じゃあ、まきちゃん?」
「ちゃんって… やっぱり慣れてるー 怖―い。」
 微笑みながら睨まれてしまう。
「あのー、何か勘違いされていませんか?」
 まきちゃんは急に真面目顔になり、
「だって… 有名な作家さんでしょ。しかもスポーツ万能で。」
「いや、そんな…」
「ねえ、私の事、何狙いなの?」

 凍り付いてしまう。何故だろう、何故彼女をランチに誘ったのだろう。間違いなく僕の中に彼女への仄かな想いがある。しかしそれは恋や愛といった類でなく…一体、何なんだろう…
 最近メールで頻繁にやり取りをしている、メル友だから? 塾に通う息子の悩みを相談し合う、塾友? 
「ただの暇つぶし相手?」
 断じて違う。暇つぶしならもっと他のことをするであろうし、僕は今日のこのランチをどれほど心待ちして来たことか…
「身体目当て?」

 ちょ…
「それは言い過ぎだろ!」
 思わず声を荒げてしまう。店内に響き渡る声に彼女はビクッと体を縮ませる。さっきの店員が何事かとこちらを伺っている。
 彼女は僕をキッと睨みながら、
「じゃあ、何なの?」
「それは…」
「やっぱり。単なる遊び相手の一人、なんでしょ?」
「違うよ、そんなんじゃ無い本当に!」
「遊んでいるんでしょ、何人も相手いるんでしょ?」
 その様に思われていたことにショックを受ける。これ以上彼女の顔を見られなくなる。
 夢であって欲しい、これまでの様に。そして早く覚めて欲しい、今までの様に… ズボンが僕の手汗でシミになっている。

「でもその割には地味だよね…」
「…」
「メールも堅苦しいし。」
 顔を上げ彼女を見つめる
「だから、遊び慣れてないんだって、すぐわかっちゃった。結構真面目で誠実な人なんだって。」
「え?」
「なので。大事にしてね。」
「は?」
「酷いことしないでね。」
 僕は反射的にカクカク頭を縦に振る。そして徐々に頭が真っ白になっていく。なんだこれ、なんだこの展開… まさか僕達、これから…
「あの、まきちゃんは俺のことどう思って…」
「あーー、俺だって。俺くん」
「ま、まきちゃん…」

 夢ならば覚めるな。頼むから、このままずっと。
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