第3話 第8章

文字数 2,497文字

 昨日僕宛に届いたETCカードを挿入する。「カードが挿入されました」よし。これでOK。
 カーナビを使うと履歴でバレてしまうので、スマホのマップに目的地を設定し、ダッシュボードに立てかける。
 普段使わないスーパーマーケットの駐車場に駐車する。着いたよ、とメールすると、すぐにMがポップアップし、すぐ行くと返信。
 買い物袋を下げた彼女が後部座席に乗り込む。静かに車を動かし、最短距離で首都高に乗る。湾岸線の大井S Aで車を停め、彼女が助手席に乗り込む。スーパーで買ったペットボトルのコーヒーを渡してくれる。
 
 羽田空港を通り過ぎ、湾岸線を横浜方面へ走らせる。長いトンネルを過ぎると工場地帯が目に入ってくる。つばさ橋、ベイブリッジを通り過ぎる時、横浜の街並みに彼女は大きな溜息をつく。きっと思い出深い出来事があったのだろう、僕は何も言わず車のアクセルを踏み込む。
 本牧を過ぎ八景島を通り過ぎる。僕はシーパラダイスが大好きなので、いつか行こうと言うと私は水族館が好きでない、また一つ彼女を知る。
 湾岸線から横浜横須賀道路に入ると木々の新緑に圧倒される。窓を開けて空気を思い切り吸い込みたい気分なのだが、花粉のことを考えてやめた。
 アレグラとか飲めばいいのに、と言うと彼女は薬が好きでないと言う。医者の娘のくせに変なの、と言うと、医者の娘だから薬の副作用に敏感なんだよ、と嗜められる。
 横横道路の終点で降り、ここからはスマホのマップの出番である、スマホの設定画面でGPSをオンにし、マップのナビゲーションが始まる。
 順調にナビゲーションされた僕らは程なく海沿いのレストランにたどり着く。

 僕たちは付き合い始めた。

 地元の魚と野菜をふんだんに使ったランチを楽しみながら、
「もー、ホントびっくりだよ。あそこで自撮りしようとするなんて!」
「だって…」
「初めてキスして… その後すぐに… もー全然ダメ。」
「すみません…」
「で、ちゃんとアプリに入れた? 本体の方からは削除した? そう言えばさっきオンにしたGPSはオフにしたの? ちょっとスマホ貸して!」
 彼女の正確無慈悲な検査を受けながらニヤケ顔が治らない。

 僕たちは付き合い始めた。

 彼女はこの一年間、僕を遠くから眺め試していた。僕の想いが本物であるのか。僕の想いが真実であるのかを。先週彼女は知った。僕の想いが本物であり真実であることを。
 そして僕も知った。
 彼女がこの一年間、ずっと僕を想っていたことを。ずっとずっと、忘れる日がなかったことを。

「ねえ俺くん、この人誰?」
 真顔でスマホをこちらに向ける。画面には編集部の若いアルバイトの子からのメールが開かれている。
「編集部のバイトの子だけど。」
「何この『またお食事楽しみにしていまーす』って。ふーん。」
 ニヤケ顔がさらに崩れダレ顔となってしまう。
「まきちゃーん。受信の日付はー?」
「んーー、一昨年…」
「そ。彼女卒業して田舎帰ってOLしてるらしいよ。」
「んーー、アヤシイ…」
「ど、何処が…」
「スラスラ答え過ぎる。やましい事を隠してるでしょ?」
「隠してないって。やましい事してないって!」
「じゃあ、この人誰? 旅行に誘われてるけど俺くん…」
 今度はラインを勝手に開けて女性とのトークを遠慮なく開示する
「二十年来の僕の編集者ですが。旅行でなく取材なんですが。」
「…ふーーん。怪しい」

「奥さんとはこんな感じでトークするのね」
「ちょ、個人情報…」
「ハイ。いいよ私のも見て」
 彼女がスマホを差し出す。興味はある。だが僕はそこまでして彼女の私生活を覗く気は無いので、
「いいって。」
「見たくないの?」
「うん、特に」
「ふーーん。私に興味無いんだ…」
「いやいやいや、そうじゃなくって、相手のプライベートまで知ろうとは…」
「私は、知りたい。」

 昔この手の女性と付き合って直ぐに面倒になって別れた記憶が甦るのだが。不思議と全然面倒でなく、寧ろ嬉しさが込み上げてきて、
「じゃ、僕にも見せてもらおうかな」
 それから互いのスマホを眺めながらこのアプリはお勧め、ゲームするんだ子供みたい、この人と頻繁に連絡取り合ってるじゃない、この女性は俺くん狙いだ、昔からの男友達と日帰り旅行って…如何なものか、取材で女性編集者と一泊した時部屋が同じとかあり得ない、じゃあ男友達と部屋風呂に二人で入るのはどうなのよ、この一見業務連絡ながら実はプライベートのやりとりをしているのがいやらしい、いやいや風呂上がりに布団でお昼寝して何もしなかった? あり得ないでしょ、そういうのを『寝トモ』って言うんだよ、嘘だ何もしない訳ない寝るだけなんて、だって本当だもん…

「俺くん意外にヤキモチ焼きだね」
「それさ… その男友達とのこと知っちゃったら、こうなるよ普通…」
「ふふふ。でも、俺くんには私の全てを知って欲しいの。」
「うーーん、知り過ぎると、ねえ… まきちゃんのこと…」
「なーに?」
「縛りたくなる… もうそいつと会わないで欲しい、とか言いたくなる。」
「じゃあ、もう会わない。」
「え…」
「その代わり、俺くんも…」

 この様な関係を『重い』と表現する。そしてそうなる事を僕は極力避けてきた。自分の全てを他人に曝け出す、何一つ隠す事なく。そんな事は親友に対してさえ、ましてや妻にさえしなかった、いや出来なかった。
 しかし彼女のスマホを隅々までチェックし、僕の知らなかった彼女の交友関係、過去、現在を知るに至り、彼女が僕の全てを知ろうとする事に嫌悪感、違和感が全く無くなっていた。
 人として踏み込んでいい部分、悪い部分の境界線が僕と彼女の間には無くなりつつあるのだ。今までとは違う自分になりつつあるのを感じ、それでいいのかと自問するのだが考える暇もなく新たな自分に成っていく。

「はい。今日の検査、おしまい。」
「これ… 毎回やるの?」
「随時ね。俺くんの挙動が怪しい時とかに。」
「だから… もう無いってそんな事…」
「で。この後どこに行くの?」
「三崎の方から城ヶ島にでも行ってみない?」
「ふーん。そこ今まで誰かと行ったの?」
「な・い・しょ」
「ふーん。言うようになったよね、俺くん」
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