第1話 第4章

文字数 3,751文字

 中学受験と言う冬が来た。約二年もの長い冬である。プチ氷河期だ。中学受験は親七割子供三割なのです、塾の先生が言っていた。はあ? そんなバカな。聞いた時はそう思ったが、いざモードに入ると全くもってその通りである、と思わざるを得ない。
 学校から帰ると塁はすぐに塾の支度。国算理社の四科目あるので、テキストやプリントの整理は最早親の重要な仕事である。
 授業の合間に食べる夕ご飯の弁当の支度。妻がいる時は妻が、そうでない時は僕がそれなりに栄養バランスを考えて準備する。たまに塾御用達の弁当屋にお願いする。
 そして最も大事な親の仕事、それが塾の送迎。そんなの電車で一人で行き帰ればいいだろ、そんな考えはげっそりとした顔で十時過ぎに帰宅する息子の顔と家での猛勉強を見て簡単に趣旨変更。彼専属の運転手として僕のレゾンデートルが確立する。
 初めは面倒だと言う思いが無くもなかった、いやかなり有った。が一週間もこなしていると徐々にそれが生き甲斐の様に感じてきて、社会的には役立たずのこんな僕でも役に立っている、という自己肯定がかつての成功していた頃の自分を思い出させてくれて、意外にも心地良い。

 息子とはいえ自分以外の人の為に身を粉にするのは、長女の幼稚園お受験以来のことだろうか。あれはあれで大変だった… 幼稚園受験なんて未知の世界に妻とどっぷり浸かっていたあの頃に比べたら、男子の中学受験の今の方が少しは気が楽だ。
 そんな事をフワフワと考えながら塾の前で出待ちしていた、ある寒い夜。周りには僕と同じように疲れ切った息子娘を迎えるべく、大勢の親達がじっと塾の入り口を見つめている。これだけ毎晩来ているので大概顔見知りになるのだが、互いに話しかけることはない、何故なら周りは愛しい子供のにっくきライバルの親なのだ。
 中には親しげに語り合っている親達もいるが、内心はバチバチ火花を散らし牽制し合っているのが簡単に読み取れる。己と子供達のプライドを賭けた命懸けのマウンティング合戦に僕はサラサラ参入する気はなく。まあ遠くから眺めている分にはちょっと見ものなのだが。
 時計を見るとそろそろである。今夜もさぞやへばって出てくるだろうななんて考えていたその時。僕の視界に、駅の方から小走りにこちらに来る彼女が入ってきた…

 何故?

 暖かそうなセレブ流行りの黒のダウンコートをキリッと着こなし、キャメルの革手袋で髪をかき上げながら彼女は僕の存在に気付かず、塾のエレベーターを凝視している。周りのパパ連が口をぽかんと開けて彼女の姿を食い入るように見ている。
 少し誇らしくなる。何故なら僕はこの人とランチをした事があるのだ。この人の咀嚼の様を知っているのだ。左利きの箸使いの様を知っているのだ。
 そんなことはどうでもよい、何故彼女がここに? 答えは一つ、もやしっ子、すなわち陸がこの塾に通っているに違いない。なんて馬鹿で愚かな僕。そんな素敵な事実を今まで全く知らなかった…
 ドアが開き、ポケモンのモンスターが如く子供達が走り出てくる。どんなレーダーを装備しているのだろうか、一瞬で自分の親をロックオンし手を繋ぎ去って行く。やがて我が息子も… 彼は野球仲間のもやしっ子と語り合いながら出てくる。彼女が声をかけるとようやく息子はレーダーをオンにし、三秒で僕を見つける。
 僕は塁の手を引き、耳元で
「もやs… えっと、陸と塾一緒だなんて、知らなかったぞ、聞いてないぞ!」
 塁はムッとした顔で、
「はあ? 話したよね先週話したよね父さんふーんて言ったよね」
「んーー、ああ、聞いた聞いた、ははは」
 いや。聞いた記憶は全くない。全然無い。筈だ。ん? あれ? そう言えばロイホでランチした時に塁と彼女が話していた… かも…?
 一人悩んでいると背後から暖かいオーラを感じる。
「青木さん、今晩は」
 彼女が笑顔で僕の前に立つ。辺りが一瞬で明るくなった気がする。周囲のパパ達がギョッとした顔で僕達を見つめているのを感じる。
「塾、一緒だったんですね、今まで気づかなかった…」
「そうなんですよ。陸ったら毎日塁君の話ばかりで。それでは、お先に。」
 陸と手を繋ぎ駅の方へ向かう彼女に、思わず声をかけていた。
「あの、僕車なので送りましょうか?」
 塾の前の空気が凍りつく。すぐに視線のレーザービームが八方から放たれる。明らかに迷惑そうな表情で彼女は言う
「主人があちらで待っていますので。」
 不思議そうにもやしっ子が彼女を見上げる。空気は動き出す。
「じゃあねー、また明日――」
「じゃあねー。」
 息子の手を掴み、周りのさめざめとした視線を避けながら、僕は顔を下にして停めてある車へ向かった。

 男の子は鈍感である。そして大人になると愚鈍になる。それに救われているのだが、これが長女の華でなくて良かった。あの子なら五秒で僕の全てを認識し、母親に三割り増しで報告する事であろう。
 僕と直子が再婚した翌年、つまり二十世紀最後の年に華は生まれた。直子に似た非常に聡明かつ大人びた子であり、その育児に苦労した記憶は皆無である。ハイハイも立ち上がるのも喋り出すのも人より早く、離乳食もトイレも楽勝であった。
 実は直子の実家はちょっとした資産家で、その筋から是非幼稚園のお受験をしてみては、と勧められそれに僕らは従ってみた。するとあれよあれよの間に幼大一貫名門私立幼稚園に合格してしまった。
 直子の実家筋は大喜びで、入学金や学費を以来負担してくれている。そうでなければ直子と僕との収入ではとても通わせることができなかった。
 華は現在中等部の二年生で、成績はずっと上位に入っており、現在は生徒会活動に邁進しているらしい。運動神経は僕から上手く遺伝しなかったらしく、運動はどれも「そこそこ」とは本人曰く。
 そんな華は進学塾を知らない。従って息子と僕の受験戦争をポテチ食べながらカウチに座ってテレビ観ながら眺めている。そして偶に、
「成績落ちたの? もっと頑張ればーー。で、パパ、カウチって何?」
 などと言い僕ら二人を苛立たせ凹ませる。誰だ、娘は俺の宝物、娘のためならいつでも死ねるって目尻垂らして公言している奴は! 

 とまれ、彼女と絡んでいるのが華ではなく塁で本当に良かった、運転しながら安堵する。そして今夜の彼女の事を想う。というよりも、実は彼女のあの迷惑そうな顔が脳裏にフラッシュバックしていて思考回路はずっとフリーズ状態なのだ。
 息子が何か喋っているが鼓膜が振動を拒否している。ああ、あんな大勢の前でいきなり「送ります」なんて非常識だよな、しかも皆が振り向くくらい大声で… ん? あれ?
「おい、今父さんなんか喋っていたか? 声大きかったか?」
 また独り言を呟いたかと思い、後部座席に塁に問いかけるも、
「で、受験では慈照寺銀閣、なんだって。金閣寺も鹿苑寺なんだって」
 全然人の話を聞いていない。それなら僕の独り言も聞かれなかったようだ。少しホッとする。
「陸くんとクラス同じなのか? 仲いいんだな。彼はどこ狙ってんだ?」
「でさ、江戸幕府できた時に建てられたのが知恩院て言って真言宗の総本山なんだよ」
「それ浄土宗な」
 甘い。都の西北舐めんなよ。そんな事より、
「でさ、さっき父さんの声、お……」
「でさ、京都の人の戦後って鳥羽伏見の戦いなんだって。ウケるーー」
 僕の息子は、十歳にして鈍感を通り越し、既に愚鈍である。その事実に軽く吹き出すと共に胸を撫で下ろす僕なのである。

 彼の通う塾は恐ろしい。小六にもなると月金、夕方から夜十時まで、毎晩弁当持ち、土日は大抵模試。社畜養成機関としての全てを備えている財産吸収体だ。小四の彼等でさえ冬休み期間は大晦日と三ヶ日以外は毎日朝から晩まで缶詰だ。
 そんなブラック企業ならぬ黒塾にもかかわらず、塁はそこそこ頑張っているようだ。何しろ野球バカだったおかげで体力だけは他の子よりあるらしく、毎日元気一杯に塾に通い弁当を食べ帰宅してすぐに就寝している。っておい、いつ勉強してんの?
「え? 塾で集中してるから。家でやる必要無くね?」
 まあ、小四レベルならそれでいいのか。来年再来年はそうもいかないだろう、帰宅してから二時間、起きてから一時間、寝る間も惜しんで詰め込むことになる筈だ。
 その頃にはもっと僕も色々手伝ってやらねば、なんて考えてしまう。いや、中学受験、親と子の熱き戦いなのである。なので、ある、のだが。
 そんな親子の苦労とは裏腹に、今僕の心は彼女の事でいっぱいなのだ。商売柄、人の心情を考察するのは吝かでないが、どうも彼女の事になると僕は平常心を保てなくなる。通常これを恋と定義するのが簡潔明瞭なのだが、余りに俗っぽくてどうも納得がいかない。
 少年野球のコーチ(擬き)と母親。ありきたりである。それに僕は彼女の事をほぼ何も知らない。彼女のこういう所が好ましい、素晴らしい、というのも無い。
 ただ彼女の前に立ち彼女の目を見ると、思考停止体温上昇心拍増加脇汗脇濡口数減少などなど、まあ受験には出題されない四字熟語が羅列される現象に大いに戸惑う。
 僕は彼女に怯えているのだろうか。それとも何かに打ち震えているのだろうか。僕の過去恋愛ファイル内に似たようなケースは、無い。
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