第1話 第1章

文字数 2,820文字

 河川敷のグランドの照り返しは昔と変わらない。いやむしろ、平成を二十六年過ぎた今、昭和生まれの僕が子供の頃よりも地球の気温が上昇している分、昔よりも強いのかもしれない。
 朝方に少し吹いていた風も今はすっかりと止んでしまい、ベンチに腰掛けているだけなのに額から流れる汗がやけに目に染みる。

 息子の少年野球を見学するようになって丸一年が過ぎようとしている。大昔にスッパリと野球への道を諦め捨てた筈だったのに、今こうしてぼんやりと下手くそな野球を眺めている。
 息子の塁が少年野球のチームに入りたいと言い出した時は複雑な気持ちだった。自分が諦めた道を息子が進もうとしている。父親としてそれは素直に嬉しかったのだが、どうしてもあの夏の忘れられない痛みが胸に込み上げてくる。
 塁が幼い頃、一度もキャッチボールをしてやったことはなかった。彼は小学校の友人たちから野球を覚えたのだった。
 三年生になり、河川敷をホームグランドにしているこの少年団に入部したいと言ってきた時は、この喜びと胸の痛みが同時に僕を襲い、妻が優しく慰めてくれたものだった。
 以来、暇な時にはキャッチボールの相手をしてやったり、素振りを見てやったりしている。すると徐々に僕の中の野球本能が抑えきれなくなり、本格的に塁に野球のイロハを教えるようになっていた。
 四年生になった今年、塁は一軍に入り公式戦にもちょいちょい出場するようになっていた。コーチには僕の過去を教えていなかったのだが、塁がある時僕の過去を話したらしく、以来何かとあてにされるようになっている。
 コーチ就任の依頼は腕の手術跡を見せて丁重にお断りした。何故なら心の傷が未だ癒えていなかったから。
 なので練習日や試合にコーチとしてではなくベンチスタッフとして帯同するようになり、炎天下が続くこの数日は貴重な熱中症対応要因として僕は奮闘しているのだ。

 入道雲の隙間から照りつける太陽を見上げ、この調子だとまた今日も熱中症になる子がいるだろうな、と危惧していると案の定。ライトを守っている子がしゃがみ込んで動かなくなった。
 やれやれ、と思いつつも我が子及びその仲間達の健康が第一である、僕はノックに無我夢中の若いコーチに声をかける。
「えーと、コーチ、ライトの子が!」
 全身汗まみれのコーチがライト方向を一瞥し、
「またかよー、青木さん、お願いします!」
 汗をぬぐいつつベンチを立ちライトへ向かう、気がつくと全力疾走している自分が笑える。
 昭和で言うもやしっ子が、しゃがみ込んで青ざめた顔で僕を見上げる。
「おーい陸、立てるか? ダメか、仕方ないな、動くなよ」
 所謂お姫様抱っこで彼を抱え上げ、グランドの端に生えている木まで歩く。軽い。木陰にそっと下ろし、昔からの言い伝えに僕のアレンジを加えた熱中症の手当てを開始する。脇の下にビニール袋に入れた氷水をあてがう。スポーツ飲料を少しずつ飲ませて、ズボンのベルトを緩めてやる。
 あと、何をするのだったっけ… そうだ、親への連絡だ…

 ベンチへ戻り関係者以外厳秘の名簿を開き、陸の親の連絡先を探す。あれ、そう言えば…
「コーチ、陸の名字って何だっけ?」
「田中っす、田中陸です」
 田中、か。子供達を下の名前で覚えた僕は、彼らの苗字が全くわからなく、この数日この繰り返しなのだ。苦笑いしつつ、名簿に目を走らせる、田中陸。保護者、田中真木子。あった。これに違いない。
 早速田中真木子さんの携帯番号を僕の携帯に打ち込む。そう言えば田中真木子って… 応対の声がテレビでよく聞くあの甲高い声だったら笑える、と思いつつ通話ボタンを押す。
 出ない。留守番電話になってしまう。リダイヤルボタンを押す。出ない。これは笑えない。
「コーチ、親と連絡取れないよ、どうする? 留守電に入れておこうか?」
「うーーん、ちょっと俺の携帯から電話してみてくれませんか?」
 あ、なるほど。しっかりした親御さんなのだ。見知らぬ番号からの電話には出ない。俺の番号が登録されているはずもないので、不審者からの着信と判断し受信しなかったに違いない。
 コーチのバッグの中を漁り、やたら現代風根付がくっついている携帯を取り出し、番号を打ち込み通話ボタンを押す。

「はい、田中でございます」
 全然甲高い声ではなく、暑さを忘れさせてくれるような涼しげな声である。そしてこの丁寧な言葉遣い。そういえば塁が言っていた、陸の家はセレブであると。
「えーと、多摩川BCの青木塁の父でございます、ごきげんよう」
「…………」
 やってしまった。ございます? ごきげんよう? 普段使いなれない言葉を使い、思いっきり不審者からの電話となってしまう。
 気を取り直し、お子様の現状を報告しなければならない。
「あー、えーと、ご子息の」
 ごししょくって、デパ地下じゃあるまいし…
「陸くんが熱中症になられて」
 六階子供服売り場のお客様じゃあるまいし…
「今横になってんすけど、お迎えに来れられますでしょうか?」
 一階受付の案内嬢も吹き出す己の言葉遣いにもはや頭が真っ白となり、以後何を喋っていたのかは後日知る事となり。
 車ですぐに来るとの事で電話を切り、暑さからとは全く違う汗を拭いながら、何故僕はこんなに動揺しているのか不思議に思った。今思えば息子のチームメイトの母親に事務連絡をしただけなのだが、あの時の冷たい汗は何を予感していたのだろうか。

 三十分ほどして、陸の母親はやって来た。
 僕だけではなく、グランド上の全員が動きを止めてしまったそのいでたちは今でも鮮明に覚えている。白のストローハット。プラダ系のセレブ風サングラス。白のひらひらワンピース。土埃舞うグランドに全く場違いな彼女は、ゆったりとこちらに歩を進める。
「田中です、いつもお世話になっております。」
 芸能人みたいに小さな顔。小柄ながらもバランス感抜群のスタイル。ワンピースからのぞく白く高貴な細い足。そして、電話口から聞こえたのと同じ、鳥の囀りの様な涼しげな声音。
 練習は終っていた。正確にはこの母親の出現により練習活動が停止した。コーチも少年たちも暑さを忘れ、陸の母親の涼しげな美しさに我を忘れ呆然としていたのだった。
 看護師の妻仕込みの僕の応急処置が効いたのか、陸は自分で起き上がり母親と話をしている。コーチが片付けを指示すると子供達は暑さを思い出し、ダルそうに動きだしていつもの風景に戻った、この木陰を除いて。
 陸の母が僕に振り向き、
「青木さん。本当にありがとうございました。陸はもう大丈夫みたいです。」
「えっ、あっ、本当ですか、よかった、はい」
「それでは息子を車で連れて行きますので。これからも宜しく御指導お願いします」
「こ、こちらこそご指導、宜しくお願いします」
 母親が軽く眉を顰めるのがわかった。私が貴方に何を宜しく指導するの? サングラス越しの目がそう呟いていた。

 これが彼女との初めての邂逅であった。
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