第1話 第6章

文字数 4,558文字

 発信元不明の電話がかかってくる。
「はい、青木です」
 そろそろ塾の迎えの時間。小雨がパラつき、夜には雪にもなるかもしれないと気象庁。
「…………」
 三十日の今日で平成二六年度の塾は最後であり、我々戦士の束の間の休戦だ。カウチなポテトの華を時給で立ち上がらせ、ようやく家の大掃除に目処がつく。のだが、キッチリ時給分の仕事しかしない華。結局細かいところは全部僕がやる羽目になるのであった。
 娘さえいればそれでいい。とか、断じてありえない。
「えーと、青木ですがどちらにお掛けですか?」
 そんな訳で、いつもよりイライラに満ち溢れている僕の言葉の棘が、間違い電話の相手を攻撃していく。
「忙しいので切りま…」
「あの、田中陸の母です…」
「……」
 咄嗟に言葉が出ない。そしてお約束の脇汗発汗体温上昇心拍… でも、えっ? はっ?
「あっ、お疲れ様です」
 この辺りから僕は何を話したのか殆ど覚えておらず、後日談から抜粋していきます。

「あ、はい、あの、青木さんこれから塾に塁君のお迎えに行かれますか?」
「あ、はい、その辺は間違いありません」
「…あの、私どうしても外せない用事がありまして、息子のお迎えに行けないのですが、大変申し訳ございませんが陸のお迎え、お願いしても宜しいでしょうか?」
 唯一覚えているのが、わたし、ではなく、わたくし、と彼女が自称していた事。
「あ、はい、それは間違いなくお連れさせていただきますので悪しからずご了承ください」
 僕…

 数年後に更に予想精度が上がる気象庁のコンピューターの計算通り、そして古の歌人の予言通りに雨は夜更け過ぎに雪へと変わる。クリスマスは過ぎたけれど。
 そう言えば十二月の雪なんて随分と久しぶりな気がする。それにしても雪。家でのんびり過ごしている分には風情があって好ましい気象現象なのだが、実生活上でこれ程厄介なものはない、特に雪が降り慣れていない東京のような場所だと尚更だ。
 今夜は間違いなく交通網は大打撃を受け、電車バスは大混乱をきたすだろう。まあそうでなくとも塾の送り迎えは車を使っているのでさほど影響はなさそうだが、念の為にタイヤにチェーンを巻いてある。バブル世代の男ならば車のタイヤにチェーンを巻くと言う行為は、男の嗜みとして出来て当然の行為である。この年になると面倒臭いけど。
 車をいつもの駐車場に停め、ユニクロのダウンのフードを被りながら塾の前に辿り着く。道は既に薄く雪が積もり、歩き辛いったらありゃしない。それに足元からの底冷えが我慢できず、常に小刻みにステップを踏み寒さを和らげてみる。
 それにしても。どうして彼女が僕の携帯の番号を知っていたのだろうか。僕の過去のファイルによると、相手が僕の番号を知るには僕の名刺が必要なのだが。
 だが僕は彼女に名刺を渡した記憶がない。畏れ多くて差し出せなかったから。携帯を手にして番号乃至はメアド交換、みたいなパリピ族の風習は四十六のおっさんには無い。
 それに彼女は携帯電話でなくスマートフォンであった気がする。スマホだと確かラインとか言うコミュニケーションツールが便利だとか。
 ああそう言えば、華にせっつかれ、そのラインの為だけに明日の大晦日、家族全員スマホに機種替えするとの事。どうせそのラインなんてのはすぐに廃れる。だれも使わなくなる。昭和のカンって奴である。スマホなんて高いだけだって。別にガラーケでいいじゃ無いか!
 華はそんな僕の論舌を論破するどころか完全無視し、直子と共同戦線を引き、如何に家族のコミュニケーションの為にスマホが必要なのかを直子に語らせ、僕は敢え無く無条件降伏の上損害賠償をドコモに支払う事に合意したのは一昨日。
 おっとそんなことはどうでもいい、どうやって彼女は僕の番号を… おっ、出て来た出て来た子供たち…

「陸、お母さんから聞いてるか? お母さん今日来れないからうちの車で送っていくぞ」
「うわ、コーチ有難うございます。」
「うわ、コーチお腹すきました。」
 今九時半。軽食ならアリかな。でも、一応彼女に確認しておかねば、と電話を掛ける言い訳を捻り出す。携帯の着信履歴から彼…
 あ! わかった。この子が熱中症になった時、確か初めは僕の携帯から彼女に掛けたのだ。全然出てくれず、仕方なくコーチの携帯から掛け直したのだった。なので僕の携帯にも送信記録として彼女の番号はあったのだが、ランチの日の帰宅後に消してしまった。
 しかし僕の番号なんてよく消さずにキープしていたなあ。ちょっと、いやとても嬉しくなり顔が赤くなるのを感じていると、
「コーチ、お腹すきましたあ」
「お、おう、ちょっと待て、今お母さんに連絡するから…」
「もう陸がしたって。前行ったファミレスならいいって。」
 試合後に行ったあの店はファミレスのくせに何か敷居高い気がする。値段も高めの設定だ。僕は玉葱のスープかな、あれは美味い。もう少し薄味ならパリのカフェにも負けない気がする。知らんけど。
「ところでお母さんはどこに行ってるんだ?」
「うーん、知りません。」
「車で出かけているのかな?」
「電車みたいですよ。雪の中運転したくないって言ってました。」
 電車、か。この寒さで彼女は震えていないだろうか。横殴りの吹雪の中、ロイホが左手に見えてきた。

 二人は食事中、塾での勉強の話など一ミリもしない。ずっと最新のゲームの話だ。彼らの立場上、受験が終わるまではゲーム機に触れることはあるまい。故に叶わぬ夢を二人で熱く語り合っている姿は親としても涙ぐましいものだ。
 直子は今夜は朝まで夜勤なので、特に連絡を入れる必要もない。家でカウチしている華はむしろ戦の最中の刺々しい僕と塁が家にいなくて伸び伸びとレコ大でも眺めているに違いない。
 食事を終えるともう十一時。慌てて会計を済ませ二人を車に乗せる。チェーンを巻いているので雪が強くなっても僕らは心配ない。だが彼女は駅から無事に帰宅できるのか、不安になってくる。
「なあ陸、お母さん大丈夫かな。まだ外だよな?」
「あーー、えーーと、うわ、今駅ですごいタクシー待ちで寒がっています、ヒャハ!」
「ヒャハってお前、え? うわ何この写メ…」
 陸がスマホのラインを見せてくれる。なるほど、これは中々便利なものである。少しだけスマホとラインを見直して、改めて写真を見ると豪雪でタクシー待ちの行列が凄いことになっている。
「よし、お母さんを駅まで迎えに行こうか!」
「え、コーチ、いいんですか、えーーと、コーチが迎えに… あ、結構だそうでーす」
「早っ まあ、とにかく駅まで行ってみるぞ。」
 これが僕の秘めたる体育会気質だ。ピンチになると強引というか強行というか、まず体が動き出す。そこに打算や欲は無い。ピンチを乗り越えてから考える。脳筋と蔑称されているらしい。

 甲子園を決めたあの試合を思い出す。九回の裏、一打サヨナラ負けのシーンで引き攣った顔の二年生エースに掛けた言葉だ。
「見てみろ。あいつ膝が震えてるぞ。生まれたての執事だ。打ち取れるぞ!」
「ハアハア、はあ? 執事?」
「羊だ」
「ハアハア、それ言うなら子鹿かとー」
「え… そうなのか?」
「出たーーー、肝心な時の、天然青木節(笑)」
 普段なら寒―くなるのだが、疲れて緊張している時だけに良く効いた僕の天然ボケのお陰で楽々子鹿を打ち取った彼は、一生甲子園ベスト8投手の称号を手にする事になる。

「青木節って何かかっこいいですね、で何ですかそれ、ヒャハ」
 ヒャハってお前、何かグランドでのキャラと違うんだけど。これ以上無い程礼儀正しく、完璧な敬語を操る彼の裏モード。って…
「は… な、何だよ、青木節って?」
「父さん、独り言なう、っと。」
 そうらしい。僕はよく独り言を呟くらしい。直子には注意され華にはディスられているのだが、人に迷惑かけてないだろ、僕の勝手だろ、と向き合いもしなかった、今迄。が、今は不味かった。この子の前ではよろしく無い。この育ちのよろしいママっ子は何でもかんでも親に話…
『コーチ独り言キモいyo』
 とラインしたらしい。それに対し彼女は
『ママもリーくんも寒い夜yo』
 と返答したと言う。
 後ろでくすくす笑い合う餓鬼ども。あとで覚えていろよ、いつか後悔するぞ、と声に出さない様に注意しているうちに駅に到着する。
 タクシー乗り場は依然として、いや写メの画像よりもずっと混雑している。雑踏の中彼女を見つけるのは困難かと思いきや、もやしレーダーが即ロックオンする。
「コーチ、あそこです、あの郵便ポストの辺り」
 見ると彼女が寒そうにこちらを見ている。
「よし、でかしたあ!」
 車を横付けし、助手席のサイドウインドウを下げて、
「田中さーん、乗ってくださーーい」
 するとすっかり調子こき始めた後部座席のガキ二人が、
「ヒャハ、田中さあーん、乗ってけよーー」
「中谷美紀さーーん、素敵デーーース、ぶははは」
 助手席のドアが開かれる。
「もー、ちょっとー、恥ずかしいじゃないのっ」
 後ろを振り向き、と言うより流し目? 彼女は困惑と可笑しさを混ぜた表情で言った。そして前を向き、敢えて前方を凝視しながら僕に言った。

「正直助かりました。もう全っ然、列が進まないんです。」
「ならよかった。でも、ご主人に迎えに来て貰えばよかったのでは?」
「あ、主人は秋からずっと出張で海外なんです。明日帰国するのですが、この雪で飛行機は大丈夫かなあ…」
 確か一流商社マンの旦那。軽く胸が疼く。ん? この間ご主人が塾に迎えにくると言っていた気がするのだが…?
「へーー、どちらに出張されてんですか?」
「アメリカのシカゴです、ヒャハ」
 お前に聞いてねえよ。邪魔すんなよ。と割と真剣に後部座席を睨みつける。あれ… って、初めてちゃんと会話している! 今。話出来るじゃん、僕。話出来るじゃないですか、田中さん。真木子さん。ねえ、真木子さ… し、しまった!
「はい?」
 やや眉を上げながら彼女がこちらを伺う。僕はドキマギしながら、
「え? いや…」
「何々―、コーチまた独り言、青木節! ヒャハ」
「このコーチ、美人を乗せて浮かれポンチなうー」
「うふふふ」

 ないわな、独り言でいきなり自分の下の名前呟かれたなんて。痛い。ホント有り得ない。妻と娘の言う事はこれからの人生においてしっかりと胸に刻み精進していこう。独り言には気をつけよう。スマホこそが時代を制す。これからはラインの時代だ!
 猛省しつつ彼女の指示通りに車を走らせ、やがて彼女のマンションの前に到着する。僕は大きな溜息を吐き、後ろの二人にさあ着いたぞ、と言おうとした矢先。
「あ、ここで結構です、本当に有難うございました。あ、あの…」
「ホントにすみませんでした。すみません」
「いや、あの、今度は…」
「はあ?」
「青木さんが都合悪い時は、私が塁くん迎えに行きますね。」
「はあ!」
「それで、あの、電話はちょっと…」
「はあー」
「Gmailってされてますか?」
「はい。」
「では、これからはGmailで連絡しましょう」
「は…い…」

 後ろの二人が年末年始に勉強の合間に観るアニメ映画の話で盛り上がっている隙に、僕らはそれぞれ紙に互いのGアドレスを書きあい、交換する。人生二度の結婚式の指輪交換時よりも、遥かに緊張しながら。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み