第2話 第5章

文字数 2,554文字

『ご無沙汰しております。今日は息子が青木さんのお陰で大活躍だったようですね。帰宅してからも興奮して話しております。塁君も大活躍だったようですね。』

 信じられない。彼女の方から連絡が来るなんて…
 直子に諌められ、二度と連絡がくることはないと思っていた僕は動揺を隠しきれない。
『陸君は本当に伸び伸びと楽しそうにやっていましたよ。今日は用事でもあったのですか? いらっしゃればよかったのに』
 三回書き直した。四回読み返した。編集のOKが出た。送信した。
 どうせ返事はすぐには来ない。明日になるかも、そう考えていると、すぐに返信が来た。
『私すごい花粉症なのです。ちょっと今日は無理でした。』
 あの人が花粉症だという事実を冷静に受け止めたあと、推敲を重ねる。
『えっ、意外でした。花粉症ですか。この季節は大変じゃない…』
 後で読み返してみて、どこが悩み抜いた末の文なのか、と頭を抱えてしまう。これが作家の文章なのか。あの人は期待しているのではないか、普通の人との違いを。ああ、もう一度初めからやり直したい。
 やはり。返信が来ない。時計を見ると、僕の送信から既に三十分以上経っている。やはり最後の「大変じゃない」が馴れ馴れしすぎたに違いない。やり直したい。リセットしたい。これがDSだったら。来年辺りに出るはずのスイッチだったら…
 悔やんでも悔やみきれないまま、スマホの電源を切る。

 翌朝。淡い期待のもと、スマホの電源を入れるとすぐにMがポップアップする。眠気が瞬時に吹き飛び即メールを開く。
『最近塁君の塾の成績はどうですか? 陸の成績が相当落ちてしまい、このまま受験させていいものやら悩んでいます。』
 送信時刻は何と昨夜。僕が失意のうちに電源を切った直後に送られてきたようだ。頭を抱えてしまう。なんて薄情で無精な男なのだろう、そうあの人は思っただろう。パニックに陥りながら慌てて返信をする。
『返信遅れて申し訳ありませんでいた。返事が遅かったのでもう寝てしまたと愚考しスマホの電源を切ってしまったのです。本とすみませんでした』
 慌てて書く、あるある、の典型文を送信してしまう。どうしてもう、と声に出した時、夜勤明けの直子が帰宅する音が聞こえてきた。ここは慌てずにアプリを正確に隠す。

 シャワーを浴びている直子に簡単な朝食を作りながら、どうしても右のお尻が気になる。何度ブルっとする幻覚を感じたことか。その度に画面を見、違う違うと頭を振る。それでも手は勝手にスクランブルエッグを皿に乗せている。習慣というのは何て頼もしいものであろうか。
「ちょっと。味が全然ないんですけどー」
「新鮮な卵の素材の味をー」
「あー、そういうのいいので、ケチャップくださいな。」
 逆らわずに冷蔵庫の中のケチャップに手を伸ばした時に、幻覚が現実となる。このタイミングかよ。そっと後ろを見ると直子はスマホでニュースを見ている。セーフ。バレていない。実は強肩強打の上足も速かった僕の二盗の成功だ。

 食後、直子が寝室へ向かってからキッチリ三十分後、お尻に手を伸ばす。
『やっぱり(笑)そんなことかと思いました。ところで急なのですが、今日の午後とか時間取れませんか。陸の成績の事で相談に乗って欲しいのでうが。如何でしょうか?』
 うおおおお。あの人も、あんなキッチリしてそうな人でも打ち間違えるんだ。感動した。なにこの清々しさ。なにこの清々しくしてる僕。しかしダメぞ、僕。字間違えましたね、なんて絶対ダメだ。あの人の誇りを傷付けてはならない。
『はい、大丈夫です。そちらまで車で迎えに行きましょうか?』
『それはちょっと… 三時に私の家に来て貰えるかしら?』
『え、本当ですか? お邪魔してよろしいのですか?』
『ええ。待ってるわ。ちゃんとシャワー浴びてきてよね』

 これ、夢だよな。頬をつねってみる。痛い。これ、夢じゃない、え、現実、え…
「ちょっと、夜勤明けなんですけどっ お腹すきましたっ」
 寝室の扉をわざと音を立てて開ける直子を、間抜け顔でベッドから見上げる僕であった。

 フライパンでスクランブルエッグを炒めながら、お尻に幻覚も全く感じないまま、さっきの夢を思い出す。願望。そうあるといいな、という想い。では、ある筈もないことを望む僕は人生を無駄にしているのではないか、もっと建設的なことを考え為すべきなんだろうな。皿に盛った後テーブルに運び、直子と二人でつつく。ん? 味が無い…
「ちょっと。味が全然無いんですけどー」
「新鮮な卵の素材の味…」
「あー、そういうのいいので、ケチャップくださいな。」
 思わず吹き出してしまう。何これ。夢の通りじゃん。お尻が振動したらそれこそ…

 ブル ブル ブル

「あれー、あたしじゃないよ、マサくんじゃない?」
 強肩強打で実は俊足だった僕のリードが大き過ぎたようだ。牽制タッチアウト。
「塁が塾に迎えに来てっていうラインじゃない? あんまり甘やかせないでね。」
 ここでビデオ判定。僕の指先がタッチより先にベースに届いていたようだ。我ながら息子の名付けの良さに興奮を隠せない。画面から、そっとMを拭い去る。

 直子が確実に寝入るのを寝室で確認した後、リビングへ走り、慌ててスマホを取り出す。間違いない、あの人からのメールだ。あれこれ試してみて、今度こそ夢ではないようだ。
『おはようございます。急なのですが、今日の午後とか時間取れませんか。陸の成績の事で相談に乗って欲しいのですが。如何でしょうか?』
 これは現実に間違いない。あの人はやはり誤字爆弾なぞ落としはしない。
『おはようございます。いい天気ですね。午後時間取れます。時間と場所お任せしますね』
『では三時に池尻大橋駅で』
『わかりました。では後ほど』

 スマホの電源を切る。ほっぺたをつねる。尻をつねる。もみあげを引っこ抜く。どれも、痛い。現実だ。現実なのだ! 信じられない、僕が彼女と二人きりで…
 昼までに掃除洗濯炊事の全てを完璧に終わらせる。それも僕の家事能力の最大値を駆使して。普段はしない玄関の拭き掃除なぞついしてしまう。何か体を動かしていないと変な妄想に走りそうで… 夢から覚めてしまいそうで… 気がつくと午後一時になっていた。

 慌ててシャワーを浴びる僕は夢と現実の狭間に恋い焦がれる。
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