第2章 第9話

文字数 1,140文字

 翌朝、何事も無かったかのように光子は我が家にやって来る。今日は午前中がリハビリの日である。リハビリの日は朝食を共にし、我が家の車で豊洲にある『新豊洲メディカルセンター』まで俺を送ってくれ、リハビリが終わると近くの駅で俺を降ろし車を我が家まで持ち帰ってくれる。

「アレだ、今日辺り松葉杖要らなくなんじゃね? やっとな〜」
「術後三ヶ月も経って松葉杖必要になったのは、誰のせいかな?」
「あ、アレは… オマ… 馬鹿っ」

 光子は顔を真っ赤にしながら下を向く。母と葵が呆れ顔で箸を進める。表面上は何事も無かったかのような一コマ。だが、我お袋は何かを嗅ぎ分けたらしい。光子が車庫から車を出すために先に家を出た後、俺に近寄り囁く。

「だから、あんた言ったでしょ。ちゃんとしなさいよって!」
「え… な、何だよ…」

 お袋はじっと俺の目を覗き込みながら、
「みっちゃんに甘えちゃダメ。あんたがしっかり自分を持ちなさいよ。でないと、あの子壊れてしまうわよ」
「だ、だから、何のこと…」
「あんた。一昨日の晩、どこ行ってたの? その時、これ頂いたんでしょ?」

 お袋は間宮由子のサイン入り句集をひらつかせる。俺は俯いて何も言えなくなる。
「あの子は、本当に優しくて、傷つきやすい子なの。あんたが守らなくちゃ、ぶっ壊れちゃうよ。しゃんとしなさいな」
「…… うん。わかってる」
 こんな真剣な顔つきのお袋は久しぶりだ。

「もう、何でもないのね?」
「それは間違いない。大丈夫」
「なら良かった。はい、行ってらっしゃ〜い。『馬鹿息子 火遊びの夜 何想う』 どうよ?」
「だから… 季語が無いって…」

 街はすっかりと秋が深まり、間も無く冬の到来を予感させている。通り沿いの銀杏は葉を真っ黄色に染め、気の早い葉は道路にその身をヒラヒラと舞い降ろしている。

 病院への車中。我が家とは打って変わって無言の光子。時折つく溜息が俺の心を重くさせる。俺も流れる見慣れた街の景色を眺めながら、そして移りゆく秋から冬への変さんに心の中で溜息をつく。だがどうやら表に出てしまったようだ。

「何だよ?」
「…… オマエこそ。溜息ばっかり」
「別に」
「……」

 そして、無言。この胸の痛みは光子もそうなのだろうか。それともこの痛み以上の苦痛が彼女を蝕んでいるのだろうか…

 信号待ちの最中。絞り出すように光子が呟いた。

「しないのに…アタシとは…」

 全てを、悟っている。あの夜の由子との出来事を、光子は正確に悟っていたのだった。

「いやっ ちょっと待て、それはっ」

 信号が青に変わる。だが車は停車したままだ。光子が苦しげな笑顔で俺に、
「わかってるって。こんなヤンキーババアじゃ、な。そりゃ、仕方ねーよ…」
「待てって!」

 後ろからクラクションを鳴らされ、車は渋々と走り出す。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み