第1章 第3話

文字数 2,226文字

 定時に会社を出ると通勤ラッシュで松葉杖の身にはとても辛いので、4時前に重役退勤させてもらう。因みに会議は未だ続いているようだ。
 有楽町線で月島まで行き、大江戸線で一駅の門前仲町が俺の地元であり現住所でもある。いつもはリハビリを兼ねて月島から一駅分歩いて帰るのだが、今日は午前中にみっちりとリハビリを頑張ったので、大江戸線を使う。

 駅を降り、エスカレータで地上に出ると秋の夕暮れが迎えてくれる。10月初めの退院以来、夕食は全て『居酒屋 しまだ』で済ませている。
 そう言えば、数ヶ月前から付き合い始めた彼女とは初めての秋だ。もう少しすれば初めての冬。半年後には初めての春。自然と顔が綻ぶのがわかる。

「なーにニヤニヤしてんだよっ 気持ち悪い」
 店への途中で中学からの悪友、高橋健太に出くわす。珍しく妻の… あれ? えっと…
「金光先輩、お久しぶりー」
「おお、…久しぶり!」

 三、四ヶ月ぶりだろうか。俺たちのいっこ下、つまり間宮由子と同学年の… あれ、名前…?
「へへ。ババアがクイーンとかお前に会いてえっつう〜から、まあ、たまにはなっ」
「そうなんだ。いつも健太に世話になってます」

 50も半ば近く、人の名前が出て来ねえ…
「いやそんな… 変わってませんねえ先輩は〜」
 3人で『しまだ』の暖簾をくぐり店内のカウンター席に落ち着く。

「あらー、弥生さん、久しぶりじゃん」
 白豚、グッジョブ! そうだ、弥生さんだよ、弥生さん。こんなクソ野郎を健気に支えてくれている、人格者弥生さん!
「忍ちゃん、コイツちゃんと見張っててくれてる? こないだなんか『しまだ行く〜』なんて言って、ホントはキャバクラ行きやがって」
「健太ーーー あんだけダシに使うなよって言ってんじゃねえかコラ!」

 小林忍。歳は二こ下で中学は別。俺の彼女の『舎妹』でありこの店の従業員。

「忍ちゃん、光子先輩はまだ?」
「そろそろ来んじゃね〜 あ、噂をすればっ」

 扉が乱暴に開き、金色のポニーテールが暖簾をくぐる。迷彩柄のパーカーに穴あきジーンズ。この店の店主、島田光子。俺の彼女が店内に入って来る。

「おおおー 弥生か? 珍しいーじゃん。元気だったか?」
 弥生さんは満面の笑みで、
「光子先輩、お久しぶりです。いひひ〜」
「な、何だよ…」
「初恋、叶っちゃいましたね〜」
 突如、挙動不審となり、
「う、ウッセーバッキャロー! あー、支度支度っと〜」
「逃げた」
「おう。逃げた」
「っかー。キンちゃん、泣かすなよコラ!」
「白ぶ、ちゃん。わかってるって…」
 おっとっと。50を過ぎるとつい口が滑ってしまう。
「っち。で。みんな生でいいの? キンちゃんはウーロンな〜」

 松葉杖期間中は光子による禁酒令に従わねばならない。彼女は俺の週三のリハビリに付き合ってくれている。その叱咤激励は今や病院の名物となっており、彼女のコーチングを望む変態患者も多いと聞く。

 しばらく三人で他愛もない話をしていると、光子の孫の翔と俺の娘の葵が降りて来る。この店の二階は光子と翔の二人の住居スペースだ。

「いよっ 若夫婦のご降臨だいっ」
 健太が二人を下町のオヤジっぽく冷やかす。忍もそれに乗っかって、
「勉強進んでるかい? 子作りのっ きゃは」
 忍の頭を平手で叩く。

「へへへ。おじいちゃーん!」
「ハー。葵、勉強捗ってるか? 受験まであと三ヶ月だ。志望校は絞ったのか? 塾は…」
 葵はブチ切れた様子で、
「もーーーー。みんなウザっ 忍さんおなか空いたっ お魚焼いてっ 翔君はどーする?」
「おとうs… もとい。金光さん、今晩は。足のお加減は如何ですか?」
「やあ。お邪魔してるよ。どうかね葵の勉強の調子は?」
 翔はニッコリと笑いながら、
「ええ、大分基礎が固まってきました。あとは過去問を中心に志望校別対策に入りたいと思っています」
「成る程。あ、そっち食事終わったら、その辺の話じっくりしたいから、こちらに来てくれないか?」
「了解しました、おとうs… 金光さん」
 絶対、ワザとやってるな。こういうあざとさは葵に似てきている。よくない傾向だ。あとでしっかりと厳しく説教しなければ。

「そうか… 私立一貫校は厳しいか…」
 最近の高校受験事情を全く把握していない俺は、素直に翔の話を聞いている。
「都立や女子校の試験問題とは傾向が違いすぎます。あと入ってからも大変だと思います」
「と言うのは?」
「私立の中高一貫校ですと、中三で高一の範囲は大体終わっちゃってます。高校から入ると授業範囲に追いつくのに一苦労かと…」
「成る程。因みにお前今数学は?」
「二次関数がこないだ終わりました」

 流石、東大合格者数連続日本一の超名門中学校。恐るべし進度である。気がする。
「中三で… そうか…」
 翔は真剣な表情で、
「なので。都立か女子校に入り、AOで大学を狙うのが彼女には合っているかと」
「わかった。考えておこう。任せっきりでスマンな。情けない親で…」
「My Pleasureです。僕も毎日彼女と共に勉強できて幸せです」

 こんな優秀で性格の良き少年が葵の彼氏… 勿体なさ過ぎる。
「ハハハ… お前、龍二くんとはちょっと毛色違うよな…」
「龍二おじさんですか? あの人は天才ですから。僕は努力タイプの凡人です」
 光子の長男であり西伊豆で獣医をしている龍二には、つい数日前大変世話になっている。
「僕は母に似たんでしょうね。コツコツタイプなんです」

 翔の母… そういえば彼から母親の話を全く聞いたことがない。
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