第2章 第8話
文字数 1,874文字
結局部会は夕方まで続き、壮大な計画が動き始めた。部会後、更なる結束を固めるための結団式の会場に挙国一致で『居酒屋 しまだ』が選出され、終業時間後に皆で門前仲町へと向かう。
「急に悪かったな。仕入れとか大丈夫だったか?」
「翔と葵に買出し行かせてるわ。ま、何とかなんだろー 今夜は貸し切りにすっかな」
おいこら受験生をパシらせるな!
「予約客結構いたんだろ、断ってくれたのか?」
「そ。昨日食中毒が出たって言ったら、みーんなソッコー電話切ったわ、ギャハハ」
「…口コミで広まらないといいな…」
「そんな口コミ書いたヤツ、探し出して木場に沈める」
本当にやりそうだこの女……
それ程広くない店内に企画部員全員、社長、そして泉さんが入るとほぼ満席だ。それぞれ席に着くと早速登山の打合せ、古文書の解釈、幕末討議などが始まる。
「ところで庄司、ドローンって航空法の改正で自由に飛ばせないんじゃないの?」
「良くご存知ですね専務。法に定められたドローンの飛行禁止区域は三つあります」
「それって、都心とか空港周辺とか?」
庄司はよく出来ました的な笑顔を俺に向け、
「はい。それと150m以上の上空です」
「成る程。なら今回の企画は法的には問題ないんだね?」
「はい。登山届は出すことになりますが」
流石元登山部部長。この企画は全部こいつに任せた方が上手くいきそうだ。
「それって、入山許可とかの事なの?」
「いえ。日本の山ですと登山に所謂『許可』を受ける必要はありません。その代わりに遭難時の捜索に必要な『登山届』を地元の警察に出します」
「成る程。それは自主的なものなの?」
「谷川岳、焼岳、長野県内の北、中央、南各アルプスなどいくつかの山は条例で『登山届』が義務化されていますが、原則これは自主的に、です」
「成る程、良くわかった。ありがとう」
空きかけたジョッキにビールをついでやると、嬉しそうにそれを飲み込む。優秀で有能な部下を持てることは上司の至極である。来年は馬車馬のようにこき使って… いかんいかん。ここは銀行ではない、小さな旅行代理店だ。そんな事も忘れてしまう程の有能な部下に、皆も喝采を送っている。
「よっ 流石元山岳部部長!」
「創部以来、初の女性部長でしたからね〜 よく雑誌にも載っていましたよね」
鳥羽が嬉しそうに言うと、
「先輩には敵いません。何せ日本大学連合でヒマラヤの…」
忽ち山岳談義となり、俺は全くチンプンカンプンとなる。そっと席を立ち、泉さんの座るテーブルに顔を出す。
「…… なんですよ。信玄は『湯』で戦で負った傷を『治』していたのですね。世界的にも負傷兵を湯治させる君主、武将は古代ローマくらいだったのですよ」
「でもさ、いずみん。信玄だけじゃないじゃん、『隠し湯』って。謙信の燕温泉や関温泉、真田の別所温泉、とかさ〜」
「武田と上杉。この両者に圧倒的に多いですね」
「じゃあ織田は? 六角は? 長宗我部は?」
…… ココも、俺の知識では全くついていけない。翔なら喜んで聞き入りそうだな。それにしてもこの会社の社員の地理歴史に対する造詣の深さには感服する。俺みたいな生半可な知識では話を理解するのも困難だ。
俺はどちらかといえば数字に強い。理系に近い文系。組織において人にはそれぞれ役割がある、俺は俺で出来ることをしっかりとやれば良い。彼らを見てつくづくそう思う。
料理もほぼ出終わり、光子もそろそろ手が空く頃合いにカウンターに一人座る。光子がエプロンを脱ぎながらマジ疲れたーとボヤキながら俺の隣に座る。
iQOSを取り出し、旨そうに煙を吸い込む。
「そーいえば、ゆーこから変なメールが来たんだけどさ」
思わず俺の動きが止まる。光子から目を逸らし厨房の奥に視線をやる。あの夜の信じられぬ程の目眩く快楽が脳裏に蘇る。
俺は動揺を隠す。
「これこれ。『光子先輩。餞別にせんぱいをお渡ししますね』って、なんじゃコレ?」
間宮由子は今日、俺たちに特に挨拶もせずに東京を後にした。
「この『餅別』、もちべつってなんだ?」
「せんべつ、な」
「あーー。せんべつ、な。ハア? 何でアイツからアンタを渡されなきゃいけねーんだ? 意味不明。オマエ、何か貰ったか?」
「お袋に句集。俺には、…… 別に」
「…… そうか」
「そう…」
「……」
「何だよ?」
「…… 別に」
吸い殻を灰皿に放り投げ、光子は立ち上がり、さー、後もうちょっと〜と呟きながら厨房に戻っていく。
俺は小さく溜息を付く。
彼女についた、初めての嘘
多分それに気付きながら
さり気なく振る舞う彼女
治りかけの左足が、シクシクと痛み出す。
「急に悪かったな。仕入れとか大丈夫だったか?」
「翔と葵に買出し行かせてるわ。ま、何とかなんだろー 今夜は貸し切りにすっかな」
おいこら受験生をパシらせるな!
「予約客結構いたんだろ、断ってくれたのか?」
「そ。昨日食中毒が出たって言ったら、みーんなソッコー電話切ったわ、ギャハハ」
「…口コミで広まらないといいな…」
「そんな口コミ書いたヤツ、探し出して木場に沈める」
本当にやりそうだこの女……
それ程広くない店内に企画部員全員、社長、そして泉さんが入るとほぼ満席だ。それぞれ席に着くと早速登山の打合せ、古文書の解釈、幕末討議などが始まる。
「ところで庄司、ドローンって航空法の改正で自由に飛ばせないんじゃないの?」
「良くご存知ですね専務。法に定められたドローンの飛行禁止区域は三つあります」
「それって、都心とか空港周辺とか?」
庄司はよく出来ました的な笑顔を俺に向け、
「はい。それと150m以上の上空です」
「成る程。なら今回の企画は法的には問題ないんだね?」
「はい。登山届は出すことになりますが」
流石元登山部部長。この企画は全部こいつに任せた方が上手くいきそうだ。
「それって、入山許可とかの事なの?」
「いえ。日本の山ですと登山に所謂『許可』を受ける必要はありません。その代わりに遭難時の捜索に必要な『登山届』を地元の警察に出します」
「成る程。それは自主的なものなの?」
「谷川岳、焼岳、長野県内の北、中央、南各アルプスなどいくつかの山は条例で『登山届』が義務化されていますが、原則これは自主的に、です」
「成る程、良くわかった。ありがとう」
空きかけたジョッキにビールをついでやると、嬉しそうにそれを飲み込む。優秀で有能な部下を持てることは上司の至極である。来年は馬車馬のようにこき使って… いかんいかん。ここは銀行ではない、小さな旅行代理店だ。そんな事も忘れてしまう程の有能な部下に、皆も喝采を送っている。
「よっ 流石元山岳部部長!」
「創部以来、初の女性部長でしたからね〜 よく雑誌にも載っていましたよね」
鳥羽が嬉しそうに言うと、
「先輩には敵いません。何せ日本大学連合でヒマラヤの…」
忽ち山岳談義となり、俺は全くチンプンカンプンとなる。そっと席を立ち、泉さんの座るテーブルに顔を出す。
「…… なんですよ。信玄は『湯』で戦で負った傷を『治』していたのですね。世界的にも負傷兵を湯治させる君主、武将は古代ローマくらいだったのですよ」
「でもさ、いずみん。信玄だけじゃないじゃん、『隠し湯』って。謙信の燕温泉や関温泉、真田の別所温泉、とかさ〜」
「武田と上杉。この両者に圧倒的に多いですね」
「じゃあ織田は? 六角は? 長宗我部は?」
…… ココも、俺の知識では全くついていけない。翔なら喜んで聞き入りそうだな。それにしてもこの会社の社員の地理歴史に対する造詣の深さには感服する。俺みたいな生半可な知識では話を理解するのも困難だ。
俺はどちらかといえば数字に強い。理系に近い文系。組織において人にはそれぞれ役割がある、俺は俺で出来ることをしっかりとやれば良い。彼らを見てつくづくそう思う。
料理もほぼ出終わり、光子もそろそろ手が空く頃合いにカウンターに一人座る。光子がエプロンを脱ぎながらマジ疲れたーとボヤキながら俺の隣に座る。
iQOSを取り出し、旨そうに煙を吸い込む。
「そーいえば、ゆーこから変なメールが来たんだけどさ」
思わず俺の動きが止まる。光子から目を逸らし厨房の奥に視線をやる。あの夜の信じられぬ程の目眩く快楽が脳裏に蘇る。
俺は動揺を隠す。
「これこれ。『光子先輩。餞別にせんぱいをお渡ししますね』って、なんじゃコレ?」
間宮由子は今日、俺たちに特に挨拶もせずに東京を後にした。
「この『餅別』、もちべつってなんだ?」
「せんべつ、な」
「あーー。せんべつ、な。ハア? 何でアイツからアンタを渡されなきゃいけねーんだ? 意味不明。オマエ、何か貰ったか?」
「お袋に句集。俺には、…… 別に」
「…… そうか」
「そう…」
「……」
「何だよ?」
「…… 別に」
吸い殻を灰皿に放り投げ、光子は立ち上がり、さー、後もうちょっと〜と呟きながら厨房に戻っていく。
俺は小さく溜息を付く。
彼女についた、初めての嘘
多分それに気付きながら
さり気なく振る舞う彼女
治りかけの左足が、シクシクと痛み出す。