第22話

文字数 2,869文字

 神主が中心となってそれぞれの家から迎えた土公神(これは季節によって居場所を変える土の神様で、春はかまどにいるという)を遊ばせると、次はいよいよ荒神遊びとなった。舞処の中央に米俵がでんとすえられ、まるで風車のような切り紙の御幣がたくさん立てられる。ここが荒神の宿る場所となるのだろう。神棚の前でとぐろを巻く藁蛇が、真っ赤な瞳で俵を見つめている。そして、その視線は一直線にこちらへつながっていた。
 大太鼓の祖父と、笛の菫が舞処の隅に落ち着くと、桔梗色の幕をひらりと揺らして右手に扇、左手に鈴を持った睡蓮が現れた。神柱となるためか、上下ともに白衣という出立ちだ。その睡蓮の右には神主、左には叔父が控えている。やえの話では神が憑依した神柱が暴れて注連縄の外へ出るのはひどく危険で、そのために必ず神落としの秘術を知る者が付き添うという。今日は叔父がその役目に当たっているのだろう。普段は柔和な瞳を細め、まるで見知らぬ人を饗応するようにどこか繕った表情でかたわらに座っている。
 神主の修祓がすむと、太鼓をたたく祖父の歌に合わせて睡蓮が舞い始めた。白衣の袖がふわっと膨らみ、扇が陽の当たった水面のようにきらきらと輝く。螺旋状の鈴は何かを呼び起こそうとするように忙しなく鳴り響いている。それから、太鼓の調子が上がってタンタンタカタカと響きだすと、彼女は米俵の前に引きのべられた白木綿を手にした。それを両手の幅に広げて捧げ持ち、太鼓と笛の音に合わせてふわり、ふわりと横たわった8の字を描きながら揺らす。おそらく、白木綿の端には笹竹でも入っているのだろう。その棒状になった部分をつかむと、十尺はあろうかという白木綿を宙に浮かせ、くるくると螺旋を描いて舞いだした。まるで白蛇がたわむれているようだ。彼女の唇にも微笑が浮かんでいる。腕を上げてその波を大きく膨らませると、白木綿が天蓋に当たってまた白い雪が降り始めた。小さな蛇は波濤を思わせる大蛇となり、今では巫女を迎え撃つように踊りくねっている。このうねりは黒杜の地を潤わせる雨でもあり、風でもあり、全てを押し流す濁流でもあるのだ。祖父の太鼓は絶え間ない叫びを上げ、笛の音は悲鳴のように鳴り響いている。波は弧となり、弧は輪となり、輪は螺旋となり、黒杜の巫女は天蓋を仰いだままその螺旋にからめ取られる……とたんに、叔父が立ち上がって彼女の体を支え、その手に御幣を握らせて俵の上に座らせた。
 荒神舞に託宣はつきもので、かつては握った米粒の数で吉凶を占っていたそうだ。しかし、睡蓮の託宣はそれとは少し異なっている。彼女は聖別された米粒を握ったまま、ぼそぼそと、まるで歌うように言葉を告げるのだ。
 神がかりというからには派手な奇声や大捕物じみた挙動を予想していたのだが、睡蓮は終始落ち着き払っていた。白木綿を体にからみつかせ、叔父に抱きすくめられた時でさえそうだった。少しは芝居っ気があった方が観衆も喜びそうなのに、彼女は演技をする必要など微塵も感じていないらしい。薄茶色の瞳を畳に向けたまま、唇に淡い笑みをにじませている。しばらくすると、彼女は後毛のからみつく長い首を傾げ、差し出された盆の上の米粒をそっと握った。にわかに笑みが濃くなり、閉じたまぶたをかすかに痙攣させながら低い声でささやきだした。
「まもなく……黒杜の地が、炎にのまれる。赤い、炎。金色の、炎。火は空から降ってくる。無慈悲に、絶え間なく、際限なく……空を彩る赤は轟音とともに広がってゆく。嬌声のような叫びが聞こえる。ああ、人は本当に恐ろしい時には笑いに似た声を出すものだ。荷車に家財一切を積み上げても、振り返ると炎が押し寄せ、その足はもう一歩も動かない。頬が熱を感じてひりつき、乾いた瞳が自堕落に涙を流し、自分の髪が焼ける匂いがする。そう、その匂いには他人が焼ける匂いも混じっている。空が、山が、燃えている。炎は盆地を舐めつくし、傾斜を駆け上ってゆく。龍神は力を失い、底の、底の、暗い地の奥へ帰るだろう……そこで蛇はある者と出会う。これは契約だ。私と、黒杜の地に住む者たちとの。その血によって、私はこの悪夢を消し去る……」
 全く、何という託宣だ。隣でやえが唾をのむ音が聞こえた。周囲はにわかに騒がしくなり、思わず腰を浮かせる者、きょろきょろと辺りを見回す者、唇を手で覆う者までいる。
「やえ」と私はささやいた。「本当に黒杜の巫女の託宣は外れたことがないの?」
 やえはうなずいて答えた。
「睡蓮様の代になってから託宣が細かになりましたが、やはりそういった話は聞かないようでございます」
「それじゃ、この地はもうすぐ炎にのまれると?」
「天災でございましょうか? 何やら、噴火のような……」
「戦争かもしれない」私はやえの言葉を遮った。「やえ、お前はどうしてそんなに落ち着いていられるの」
「託宣は悪いことばかりではございませんでしたから。近ごろは耳が遠くなってよぅく聞こえませなんだが、契約がどうとか仰っていたようで」
「私もそれは聞いたけど」
「それなら、慌てる必要はございません。荒神様がそう仰るなら、ええ、黒杜の神楽が続くかぎり……御子神様が我々を守ってくださいます」
 おもむろに叔父が立ち上がり、睡蓮の背中に九字を切ると、えいっ、と気合を入れて肩をつかんだ。彼女の首はその勢いでかくんと前に折れ、寝入り端を襲われた人のように眉間に皺が寄った。人前でなかったら、叔父を突き返していたかもしれない。
 ふと、私と睡蓮の視線が合った。彼女の瞳は琥珀色に透けて輝き、薄く開いた唇の間からは濡れた白い歯がのぞいている。その瞬間、私は彼女が完全に正気なことを悟った。そう……彼女は初めから神がかってなどいないし、神がかったことなどこれまでに一度もないに違いない。彼女はただ知っていることを口に上せているだけだ。
「この後の神楽は?」と私はやえにきいた。
「そうですねえ、確か明日は朝早くから神殿移り、その先でまた七座の神事が……これはもう省略されるんでしたっけ? それから、能舞、王子舞、龍押しで神送り……翌朝の灰神楽で終幕でしょう」
「その龍押しというのは?」
「あちらの」と言ってやえは神棚の前にいる藁蛇を見つめた。「龍神様が男衆に担がれて舞処になだれこむんでございます」
「あの藁蛇は荒神様でもあるんでしょう?」
「ええ、そうでございます。蛇神様は龍神様、龍神様は水神様でございますから」
「何もかも一緒くたね」
「一緒くたでございます。蛇と龍も、朝と夜も、男と女も……混ざってしまうのが神楽でございますから」
 観客席のざわめきをよそに、舞処では粛々と片付けが進んでいる。私は笛を手に立ち上がりかけた菫を見つめた。すると、彼女もこっちを振り向いた。
 菫の瞳は私を素通りして、私の背後にいる誰かを見つめているようだった。しかし、振り返ったところで誰もいないことはしれている。ふと、その手が差し招くようにひらりと揺れた。私は立ち上がり、やえの言葉も聞かずにゆっくりと舞処へ近づいていった。
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