第36話

文字数 2,424文字

 竹竿に吊るされた異国の風鈴のような街灯を見上げながら、私は浅草の仲見世通りを歩いていた。山高帽をかぶって紋付袴に下駄を履いた老人もいれば、気の早いものでもう真っ白なカンカン帽をのせた洋装の紳士もいる。格子柄の銘仙をまとった女たちは半襟屋の前で噂話に花を咲かせている。
 私は紅梅焼きを頬張りながら敷石の上をコツコツと音を立てて歩いた。本当ならお汁粉屋にでも寄ってゆきたいところだが、生憎今は時間がない。そう、問題は塚崎が自分の小説の信奉者(というより最早殉死者)である青年に一通の手紙を託して寄越したことにある。そのせいで私はやえお手製のトライフルを味わうどころか半ば飲みこみ、紅茶の余韻を味わいもせずにこんな雑多な界隈をうろついているのだ。徘徊趣味は元々あるが、自主的にするのと、必要があってするのと、誰かに強制されるのとでは気分が違う。今日はどちらかといえば後者二つの混ぜ合わせで、中折れ帽の陰から舟和の賑わいを眺めつつ、その前を通り過ぎてゆくしかないのだった。
 浅草寺にのんびりお参りとゆきたいところをこらえ、私は混雑した六区を通り抜けていった。頭上では活動写真やレヴューの幟が風にばさばさはためいていている。二十銭で西洋物が見られる大東京や日本物の松竹館の向かいには、レヴュー劇場の金龍館や常盤座。日本髪に結った母親は子どもと手をつないだまま三友館の看板をぼうっと見上げている。オペラ館の前には授業をさぼったらしき学生たちがたむろっている。
 尖塔アーチの窓が並ぶ大勝館を通り過ぎ、私は瓢箪池のほとりをそのまま進んでいった。かつてはこの行手に煉瓦造りの凌雲閣がそびえ立っていたのだ……しかし、朧げな昔話に想いを馳せても、北の空は冷たい浅葱色をぼうっと霞ませているばかりだ。私はかつて十二階下と呼ばれていたごみごみした界隈へ入っていった。まるで立体迷路のように入り組んだ道を走り書きの地図を頼りにああでもない、こうでもないと思案しながらさまようこと四半時。こうして苛々するのも馬鹿らしい、よく考えたら塚崎なんてどうでもいいんだ、ということに気づいてようやく諦め、三毛猫の後をつけて遊んでいると、ぼうっと軒灯の点る小料理屋とも待合ともつかない怪しい店が目に入った。
 塚崎は畳に片膝を立てて座り、日本酒をちびちびと舐めていた。私の顔を見てもおうともやあとも言わず、ただ充血した目でじろりとにらむばかり。やせた胸元が弁柄色に染まり、着物の裾から毛脛の生えた両脚がのぞいている。私が女将とも仲居ともつかない人に帽子を渡すと、彼女は、まあ、と言って頬を染めた。大方、人目を忍ぶために男装をして会いに来た恋人とでも思ったのだろう。私は苦笑して塚崎の前に座った。
「もう君は自由の身だよ」
「馬鹿言うな。俺がいつ捕虜になった」
「だが、助けを頼んできたのは君だろう?」
「あれはあの青二才が勝手にやったことだ。俺は好きでここにいる」
「しかし、その鰻屋のうきゑさんとやらはもう結婚してしまったんだろう? そもそも、君たちが勝手に横恋慕してうきゑさん結婚反対同盟を作っただけで、向こうは何とも思ってなかったんじゃないか?」
「俺が待ってるのはうきゑじゃない」と言うが早いか塚崎はお猪口を襖にぶつけた。「あんな浮かれ女とお静をごっちゃにするな!」
「それじゃ、そのお静さんとやらに来てもらえばいいじゃないか」
「お静が来るわけないだろう!」
「どうして」
「どうしてって、お静が来ないのだから、俺には来ないと分かるだけだ」
 私はため息をついて襖を見つめた。しかし、襖にはもう何遍も修理の跡があり、そのうえ端の方が元々破れていたようなので、これなら大丈夫、弁償の心配はないと安堵した。
「お前にお静の良さが分かってたまるか」
 塚崎はそうしんみり言って毛羽立った畳を両手で撫で回した。
「でも、私はそのお静を知らないんだから」
「お前なんかに分かってたまるか……彼女は泥中の蓮なんだ。俺の朝顔なんだ。親に売られたにもかかわらず、お静のやつ、何て言ったと思う? 私は馬鹿だから構わない。だけども、頭の良い弟だけはきちんと師範学校へ通わせてやりたいって。お静のたった一つの願いは弟に新品の羽織を作ってやることなんだ……それで自分はセルの着物一枚きりで、春夏秋冬を過ごしてるんだよ」
「どっかで聞いたような話だけど、一体いくらお静に渡したんだい?」
「言ったろう? お前には分からないんだ。カフェーの女給は華やかに見えても、あれで案外辛いことが多いのさ。カフェーに出るとなれば洋服もいる、香水もいる、白粉もいる、ハンドバッグもいる……」
「さっきセルの着物一枚って言わなかったかい?」
「おまけに外で食べてきたっていうのに、食べもしない食事代とやらを店側に取られて、それが月々……ええと、いくらだったか。とにかくどえらい額だ」
「それじゃ、お静には毎日外で一緒に飯を食う旦那がいるんだね」
「この世は地獄さ。お静はその地獄の中で菩薩のような笑みを浮かべて……」
「君も兜率往生すれば本物の菩薩に会えるよ」私は塚崎の脇の下に手を入れると、ううんと力をこめて上半身を引っ張り起こした。「それまでは頑張って生きることだね。ここの金なら払っておいたからもう心配ない。それより文士たるもの、この煩悶を筆にせずして如何にするってとこだろう?」
「ああ、お静……お静ーーっ!」
 私が半ば塚崎を引きずるようにして廊下に出ると、どこから湧いたのか印半纏を着たいかつい男が一階で待ち構えていた。しかし、彼は私を脅すどころか手助けして塚崎を通りの先まで運んでくれた。
 運転手の蓮沼は濡れた野良犬を持ちこまれたような顔をしたが、小言一つ口にせず、彼をちゃんと自宅へ運んでくれるという。
 ふうっと息をついて肩を揉むうちに、私はふと、西の空がかすかに金色がかっていることに気づいた。それから、その光に導かれるように元来た道を引き返していった。
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