第45話

文字数 3,439文字

 私は蓄音器から流れる沸々とした音楽に耳をすませながら進んだ。店内は棚や衝立で仕切られ、その棚にはラッパのついた旧式な蓄音器やレコード、手回しの焙煎機などが飾られている。カウンターの上部にはガラス瓶に入った珈琲豆が色の淡い順に並べられている。無心に珈琲をいれる店主はちらと顔を上げたきり何も言わない。しかし、席に着くといつものルシアンティーがきちんと届けられる。それゆえ、今日はココアが飲みたかった、などとは決して口にできない。
 つるばみ色に閉ざされた狭い通路を抜けようとして、こちらへ向かってきた女とはたりと行き当たった。色の淡い長い髪を編み上げ、藤色の帽子からその髪の一筋がこぼれて柔らかなうねりを描いている。ドレスは帽子と同じ色で、まるでギリシャ神話から抜け出てきたように優美なドレープを描き、その波紋の始点となる胸部には白い花飾りがついている。帝國ホテルのパーティへ向かう前に立ち寄っただけ、とでもいったふうな様子だ。
「睡蓮」
 私がそうささやくと、睡蓮はふっくらした唇をほころばせた。それから、私たちは元々約束していたように葡萄酒色の革張りのソファに向き合って座った。彼女は白い旅行鞄を脇へ置き、私をからかいたいのか、視線を遮りたいのか、胸の花が潰れるのも気にせず身を乗り出してきいた。
「何か気になることでも?」
「別に」と私は答えた。「尋ねるまでもないもの」
「なるほど」睡蓮は空気に溶けるように微笑んだ。「さすがは名探偵」
 洋酒を垂らした紅茶と珈琲が運ばれてくると、私も睡蓮もそれなり口をつぐんだ。レコードの音楽が途切れると、衝立の向こうにいる客の話し声がかすかに聞こえてくる。私は睡蓮にききたいことが山ほどあるはずだった。行方不明になった菫のこと。あの不吉な予言のこと。紫苑を襲ったこと……しかし、いざランプに照らされた淡い色の瞳と向き合うと、私の頭はがらんどうになって意味のあるものを何も生み出そうとしないのだった。
 突然、ドアの鐘がけたたましく響いて背広姿の巡査部長らしき男が店内に入ってきた。彼は店主に要件を伝えると、足早に迷路状に仕切られた席を一つ一つ確認していった。その表情はひどく厳しく、言い訳など一切斟酌しない、といった雰囲気を醸し出し、それが不思議と犯罪者の容貌を連想させた。そんな妄想が伝わったのか、彼はなぜか睡蓮よりも私の顔をじいっと見つめ、店主と何やら言葉を交わすとまた駆け足で店を出て行った。彼はこれから縦横無尽に入り組んだ店々を廻るのだろう。私が息をつくと、睡蓮はふっと花が咲くような笑みをこぼした。
「君の顔、見ものだったな。鏡があればよかったのに」
「誰のせいだと思ってるの?」
「誰のせいでもない」睡蓮は旅行鞄をそっとなでた。「単なる人助けだよ。元々、あの宝石はとある人の持ち物になるはずだった。でも、新郎が情けの薄い男で、彼女が結核に冒されたと知ったとたんに婚約を破棄したんだ。彼女は今生の思い出にその宝石をもう一度だけ見たいって」
「貴方が本当に人助けを?」
「もちろん」と睡蓮は長いまつ毛を瞬かせた。「これでも苦労したんだよ。質へ流れたと思っていたら、思いがけず宝石店の金庫にそのまま保存されていることが分かったんだ。手付金だけですますためにそうしたんだろうか? 店側もそのうち売り物にするつもりだったのか、特注品の見本にするつもりだったのかよく分からない」
「それでその宝石は誰の手に?」
「もちろん、彼女の手に。でも、あの様子じゃそう長くはもたないと思うな。ストレプトマイシンが発明されるのは十年後だし」
「スト……?」
「結核の治療薬。抗生物質の一種だよ」と睡蓮は言った。「でも、まあその後の宝石の行方は君の推測通り。彼女の願いは叶えられるし、こちらも得するしで一石二鳥というわけだ」
「よく分からないけれど、宝石店から買い取るという選択肢はなかったの?」
「無理だよ。彼女が今いるのは元のお屋敷じゃなく、売春窟じみた場所だから」
「睡蓮」
「たまたま通りかかっただけ。危ない橋は渡らない主義だから」
「今渡ったのを見たばかりだけど」
「何ていうことはない。ただの囮役だよ」
「囮?」
「そう。六区が奥山と呼ばれていたころからの知り合いがいてね。彼は見世物小屋を取り仕切る親分だったんだ。その又弟子が今あの辺りの売春窟の総元締めで、警察ともちゃんと渡りがついてるんだよ。それでまず彼の手下が店員になりすまして……」
「そこまで」と言って私は睡蓮をにらんだ。「それ以上、知りたくない」
「なぜ?」
「なぜって……貴方とは価値観が違うから。私が不安になっても、貴方は何とも思わないでしょ?」
「探偵ごっこはもう終わり?」睡蓮は頬杖をつくと、紅茶に添えられた木苺のジャムを勝手に舐めた。「でも、その方が君にはいいかもしれない。だって、これから……」
「これから?」
 睡蓮は琥珀色のとろりとした瞳を細めた。
「もうすぐここも焼け野原だ。延々と同じことのくり返し。生まれては死に、死んでは生まれて。心の休息もつかの間、形ができたかと思えばまた永遠の闇に沈む」
「貴方、巫女はやめたんじゃなかったの? それとも、新しい宗教でも興すつもり?」
「それもいいね。悩んでる人間からこそ金が取れるんだ」
 私は紅茶を一口飲むと、背筋をきちんとのばして言った。
「私には貴方が何をしたいのか分からない。貴方を本当に信じていいのかどうかも。だって、未来に起こることは誰にも分からないでしょ? 災難を避ければ、その災難が何だったのかも分からなくなる。その災厄が起こったことの意味も」
「惣二郎」睡蓮は急に私の手をつかんだ。「また死ぬつもり?」
「貴方は混乱してるだけ」私はそっと自分の手を重ねた。「黒杜の巫女の力が強すぎて、きっと精神に影響が……」
「混乱してるのは君の方だよ」と睡蓮は低い声でささやいた。「君はまだ迷妄の中にいる。常識に囚われて、目の前に迫りつつある現実をちっとも見ようとしない。集合体の一部として虫のように生きることに何の意味が? それすら見出せないのに、そのうねりから泳いで逃れようともしない。それじゃ、目を瞑ったまま互いの体を貪り合うのと同じことだ」
「その代わり、貴方に食われろと?」
 ふいに、睡蓮は唇の端をゆがめて笑った。
「それが嫌なら俺を食えばいい。でも、その前に橋を渡れ。もうお前が無駄死にするのは見たくない」
 睡蓮の声は古びたレコードから流れる音楽のように鼓膜を刺激した。彼女が旅行鞄をつかんで立ち上がると、私もテーブルにお札を置いて席を立った。
 ドアの鐘はまるで壊れた風車のように無軌道にはねている。
 階段を一歩一歩上ってゆくと、次第に空が広がり、歩道を行く人の靴音、柳が風にそよぐかすかな音さえ聞こえてきそうだった。
 半円アーチに縁取られた空の下で、睡蓮が振り返って無言で手を差し出した。
 赤錆色の、筋肉の瘤が盛り上がった鬼の右腕。
「貴方を放っておくと、何をするか分からない」
 私のその言葉と、視界が溶けたのはどちらが先だったのだろう?
 ふと気づくと、道路の向こう側に見覚えのある服部時計店があった。東西南北を向いた時計塔も、ブロンズ製の植物模様の窓格子も同じ。しかし、壁の色はわずかにくすみ、その前を行き交う女たちは驚くほど短いスカートをはいている。
 クラクションに左手を向くと、なぜか路面電車は消え去り、代わりに五車線の道路に色とりどりの車が走っていた。その交差点の奥にも巨大なネオン広告のついたビルが立ち並んでいる。
 しかし、蜃気楼は波に持ち去られる砂のように呆気なく溶け、後には私を見つめる琥珀色の瞳だけが残った。西の空に浮かぶ雲は燻したような藤色にかすみ、その輪郭を朱鷺色の光が縁取っている。
 私は自分のてのひらに伝わる熱を感じた。
「一緒に行こう」
 それは男でも、女でもなく、人間の喉から出たとは思われない……まるで琴のように響く懐かしい声だった。


〈参考文献〉
市古貞次校注 『御伽草子下』 岩波書店 二〇〇五
岩田勝編 『神楽』 名著出版 一九九〇
葛洪 本田濟訳 『抱朴子 内篇』 平凡社 一九九〇
田辺悟 『人魚』 法政大学出版局 二〇〇八
中村啓信訳注 『古事記』 KADOKAWA 二〇二〇
林道春 『本朝神社考』 改造社 一九四二
細馬宏通 『浅草十二階』 青土社 二〇一一
堀秀道 『楽しい鉱物図鑑』 草思社 一九九二
湯本豪一 『日本の幻獣図譜』 東京美術 二〇一六
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