第30話

文字数 2,027文字

 白いテーブルクロスとパンの手触り、それにデミグラスソースの香りがまだ喉の奥に残っている。シャンデリアの下がるロビーで兄を待つ間、私はカーテンで三角に縁取られた窓の外を眺めていた。二階のバルコニーからは不忍池がのぞめるだろうが、まばゆい光の中にぼうっとした人影じみたものが見えるばかりだった。
 モーニング姿の兄は父と話しながらこちらへ歩いてくる。紋付き袴姿の桃香の父親と会釈し、お先に、というふうに手を動かし、私に気づくと眼鏡の奥の目を細めた。その眼鏡も池の水面のように光っている。
 兄は元々お喋りではない。しかし、今日の寡黙ぶりといったら「ええ」と「まあ」の二言に尽き、といってもまさか桃香が選鉱や鑿岩機に興味を示すはずもないので、結局沈黙は金なりでよかったのかもしれない。私は兄に声をかけずにその場を離れた。彼の唇に珍しく細波が走ったのを見られただけでもよしとしよう。
 桜の花は浅葱色の空をほとんど覆い隠している。風でぼたん雪のような花びらが震え、くるくると舞い落ちて地面に小山を作っている。しかし、その山も次の風で呆気なく崩され、螺旋を描きながらどこかへ消えてしまう。それでも、桃色の雪は絶え間なく降っている。ほんのり赤く染まった蕊は、誰かの血を吸い上げて微笑んでいるようだ。桜の樹の下には死体が埋まっているという伝説も、あながち嘘ではないのかもしれない。
 母は桃香の母と、父は桃香の父と連れ立って桜並木の下を歩いている。簡略な顔合わせといいながら、桃香はお気に入りの朱鷺色の錦紗に源氏車の刺繍帯を合わせている。彼女は自分の兄とお見合い相手にはさまれる形になっていたが、会話が時局の方へ流れたのをきっかけに私に駆け寄り、腕を取ってきた。その瞬間、私は遠い昔にもこんなことがあったような気がした。
「桜が綺麗ね」
 桃香が口にしたのはそんなありきたりな言葉だった。しかし、彼女がかすかに潤ませた瞳を上方へ向けていないのは明らかだ。彼女は自分の頬を左手でなで、思ったより熱くないことにほっとしたように息をついた。
「彰にはもう何遍も会ってるでしょ?」
 私がそう言うと、桃香はすねたように下唇を噛んだ。
「それとこれとは別よ。貴方のお父様とお母様もいらっしゃるんですもの」
 私はふと、スープを口へ運ぶたびに忙しなく口元をぬぐっていた母の目つきを思い出した。彼女の視線は格天井や、店員の蝶ネクタイや、テーブルクロスの上に落ちたわずかなパン屑の間を駆け巡り、一瞬たりともじっとしてはいなかった。
 まるで高麗鼠だ。
 私の笑みを何かと取り違えたのだろう。桃香は腕に力をこめると、また遠い瞳になってどうでもいいことを口にした。
「その若草色のワンピース素敵ね」
「桃香には敵わない。今日の私は引き立て役だから」
「引き立て役?」桃香はちょっと顔を上げたが、またすぐに目を伏せてしまった。「そんなふうに思ってるの」
「当然よ。母なんて、華やかな色は着ないようにって念を押してきたくらいだもの」
「貴方のお母さん少し怖いわ」桃香は独り言のように言った。「ごめんなさい。私、どうかしてるの。昨日もあまりよく眠れなくて、いつもより頬紅を濃く塗ったのよ。うまく誤魔化せてる?」
「花嫁さんが憔悴していても綺麗に見えるだけだよ」
「またそんなこと言って」
「でも、本当だもの」
「ねえ、茉莉花」
 桜の花びらが桃香の髪に落ち、まるで簪のようにその波打つ黒髪を彩った。後ろから兄の声が聞こえてくる。土砂崩れで起きた損害の賠償は……花見客が掻き鳴らしているのだろう。三味線の音も響いている。昼日中に酔ってでもいるのか、うなるような歌声がそれに続いた。河竹黙阿弥の『戻橋』……私は目をつぶった。すると、薄いまぶたを震わせるようにまた花が降ってきた。
「私は貴方のようにはなれない。これが私の精一杯なの。でも、いつか気づくわ。ある意味、私はとても勇敢だったって。今は教えてあげないけれど。だって、貴方はいつもそんなふうに遠いところを見て、何か違うことを考えてるでしょ? 引き立て役でも構わないって、とっても酷い言葉よ。私には無関心ってことだから。嫉妬もしない、悲しみもしない、憎みもしないっていうのは……」
「私がなぜ桃香を憎むの?」
 目を開くと、すぐそばに桃香の瞳があった。今日の彼女のまぶたは着物と同じ色に彩られ、眉もきちんと整えられている。風でコティの香水がほのかに漂ってきた。
「私は憎んだことがあるわ」
「私を?」
「そう、貴方を」
「なぜ」
 すると、桃香は私の腕を離し、にこりと笑って言った。
「ずっとそのままじゃいられないわ。私も、貴方も」
「桃香は幸せな花嫁さんになるんでしょう?」
「ええ、なるわ。それが私の復讐だから」
 桃香の意外な言葉のせいか、花びらや萼が風で舞い上がったせいか分からない。瞬きをした瞬間、花見客が歓声をあげ、三味線の音がひときわ高くなった。
 私はふいに、水面に映るいびつな影のことを思った。
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