第27話

文字数 2,617文字

 やえから聞いた話によれば、次の演目は『五王子』のはずだ。私は洞壁に背中をくっつけたまましゃがんだ。太夫が立ち去ってゆく足音が聞こえる。おそらく、着替えのために窟道を利用した楽屋に引き返すのだろう。
 舞処をちらりとのぞいて碧海が言った。
「あの赤は血糊とは思えないな」
「離れた場所から分かるものか。それより、今の大蛇は何だったんだ?」
「精巧に作られた張子だろう。内部は空洞で、そこに人が入って動かしていたんだ」
「それなら、本物の人間が斬り殺されたというのか?」
 意外にも、碧海は否定するどころか恬淡に言葉を返した。
「万物更新の習いだろう。冬が終わり、春が訪れる。人々は萌え息吹く新しい生命のために犠牲を捧げるんだ」
「まさか」と私は息をついた。「だとすれば、誰が?」
「殺されるのは古い神。象徴的な『父殺し』だろう」
「しかし、春に引き裂かれるのは古い神だけじゃない……大地の女神の娘、ペルセポネーも冥界へ連れ去られるんだ」
 私は天井を仰いだが、氷柱石が房飾りのある緞帳のように重く垂れているばかりだった。
 頭の中にやえの声が響いてくる。
 『五王子』というのは土公神の祭りなんですよ。確か、ええ、『土公祭文』というのをそのまま物語にしてあるんです。お話したことはありませんでしたっけ? 初めに天地が明け、盤古大王と后の間に四人の王子が産まれます……それで大王は王子に四方四天を譲り、元の土公に伏すんです。つまり、亡くなったということでしょうねぇ。ところが、后のお腹にはすでに新しい命が宿っていて、その子どもは異形の者として誕生するんです。それから、末っ子の五郎王子は四人の兄を訪ね、自分の所領を受け取りたいと申し出ます。ですが、四人の王子は五郎王子を怪しみ、その頼みを断ってしまいます。それで戦になるんですよ。結局、勝敗はつかずに文撰博士……これはどういう人なんでしょうねぇ? とにかく、その方のとりなしによって平和が訪れます。五郎王子は無事中央に鎮まることになり、四季の変わり目である土用を譲り受けて土公神として祀られます。えっ、申しませんでした? 四人の王子はそれぞれ春夏秋冬、東西南北を治めているんです。
 再び足音がして碧海は顔を引っこめた。それから、軽やかな笛の音が響きだした。私は岩陰からそっと舞処をのぞいた。
 四人の王子が円を描きながらゆっくり行進している。東西南北を治める王子たちは、それぞれの所領にふさわしい色の鎧をつけ、金の渦模様のある大口袴をはいている。春を司る一郎王子は叔父、夏を司る二郎王子は小父、秋を司る三郎王子は小母、冬を司る四郎王子は睡蓮が演じている。本来なら五郎王子の手下がいるはずだが、人数の都合上割愛されているらしい。そこで金色の鎧をまとった五郎王子が何の前触れもなく登場する。素面に蓬髪のかつらをつけて演じるのは紫苑だ。台本通り、五郎王子は自分が当然受け取るべき所領を求める。しかし、四人の王子たちはそれを拒絶する。五郎王子は扇を波のように揺らしながら、歌うような口調で卑しからぬ出自を語って聞かせる。それでも、兄たちは彼を認めない。ついに話し合いは決裂し、四人の王子と五郎王子の戦いとなる。
 睡蓮は冬を表す夜の沼のように黒々とした鎧をまとい、同じ色の鞘に収められた太刀を掲げ、円を描きながら舞っている。太刀は刃渡り二尺ほどだろうか。その刀をすらっと抜き、銀色の刃文を閃かせては旋回する。
 ふいに、笛の調子が高くなった。青い鎧をつけた叔父が刀を掲げたまま回ると、鎧の鋲が魚の鱗のようにきらきらと輝く。ついに一郎王子と五郎王子の一騎打ちだ。叔父と紫苑はにらみ合いながら舞処を駆け巡り、相手に切りつけ、それを端緒に旋回しては相手に切りかかるという目まぐるしい動作をくり返す。練習を積んでいるとはいえ、重い鎧が体を束縛するのだろう。二人の額からは大量の汗が滴っている。また激しく刀がぶつかり、叔父と紫苑は舞処の中央で反対周りに回転した。決着はつかず、続いて五郎王子は赤い鎧をまとった二郎王子、白い鎧をまとった三郎王子と同じ戦いをくり広げた。興奮のためか、五郎王子の唇は笑みを浮かべているようにも見える。
 最後に黒い鎧の四郎王子と五郎王子の戦いとなった。五郎王子は舞処を早足で巡りだしたが、なぜか四郎王子は微動だにせず、抜き身を構えたまま中央にたたずんでいる。紫苑の唇がゆがみ、睡蓮に切りつけたと思った瞬間、ガチンッ、と岩が割れるような音が鳴り響いた。碧海は唾をのみ、その喉仏が芋虫のように上下に動いた。
「あれは模擬刀じゃない」
 まさか、とも笑えずに私は舞処を凝視した。睡蓮が波間に漂う月のように笑うと、さっと光が瞬いて紫苑が膝をついた。その瞬間、碧海が駆けだして注連縄を飛び越えた。彼は紫苑の刀を拾ったが、鍍金のはげた合金刀は使い物にならないと判断したのだろう。とっさに次の太刀を鍔で受け止め、ぎいいっ、と押し寄せる白刃を腕の力だけで押し返そうとした。注連縄の外では文撰博士の洲楽がつながれた犬のように右往左往している。
 睡蓮の太刀が弧を描き、再び碧海に向かって振り下ろされる。その瞬間、私は岩陰を飛び出して叫んでいた。
「百合!」
 睡蓮が顔を上げ、その隙に碧海が黒い鎧の胴を蹴飛ばした。華奢な睡蓮は舞処の隅に吹き飛んだが、左手を突いて素早く身を起こし、碧海の追撃をかわした。しかし、真剣を拾おうとした碧海は袴の裾に足を取られてよろけ、今度は睡蓮が彼の肩を蹴飛ばした。
 睡蓮は鋭い犬歯をむき出しにして罵った。
「貴様!」
「来るな!」と、碧海は外れた肩を押さえながら私に向かって叫んだ。
 睡蓮は息をついて私を見つめ、かすかに唇を震わせると、注連縄を飛び越えて闇の奥へと走り去った。私は彼女の消えた岩陰をぼんやりと見ていたが、ふと我に返って小父や小母とともに紫苑を助け起こした。
 幸い、鎧が盾になって命に別条はないらしい。しかし、鎖骨の左から斜めに傷が走り、切れた鎧の紐を伝って鮮血が滴り落ちている。
 睡蓮の目的は何だったのだろう? 黒杜の財産か、巫女としての名声か……いや、元々目的などはなく、ただ笛の音と血の味が彼女の本性を呼び覚ましたのかもしれない。
 粉っぽい闇が垂れこめたその奥から、雫の垂れる澄んだ音が響いてくる。
「菫は?」
 そうきくと、紫苑は青ざめた顔を上げ、唇をゆがめたまま傷痕のある鎧の腹部を押さえた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み