第33話

文字数 1,714文字

 さっくりした衣の天ぷらと甘辛いたれの相性は抜群だ。口の中に残る海老のぷりぷりした感触を楽しんでいると、丼を空にした芝浦が麦酒を飲みながら言った。
「時に碧海、例の女はどうなった?」
「女?」と、碧海はお猪口を手にしたまま顔を上げた。
「消えた女だよ」
 碧海は恬淡にうなずいた。
「奮闘中だ。少なくとも、画布の上でなら会えるかもしれん」
 芝浦はにやりと笑った。
「現実は諦めたのか」
「お前は何か勘違いしてるな。塚崎の言ったあれは妄想だ。俺は拾った女に惚れこんだりはしない。惚れるとしたら、自分の頭の中にいる相手にだけだ」
「安上がりで結構」芝浦はまた麦酒を飲んだ。「俺にはどうも分からんがね。現実でなく白昼夢の世界に住んでる奴らもいるようだな」
「現実も畢竟妄想だ。人間は自分の脳味噌を通してしかものを見ることはできない」
「芸術談義はさておき」芝浦は息をついた。「仕事の方はどうだ?」
「例の装丁が思いのほか好評でね。デパートから広告デザインの依頼が来た。しばらくあの狸親父の顔も見ずにすみそうだよ」
「そりゃあ明るい話だ」
「といって、こんな生活がいつまで続くか」
 私はイカの天ぷらを一齧りしてきいた。
「どうかしたの?」
 碧海は黄昏時の水面のような瞳で私を見つめた。
「俺の西洋画だけじゃない。お前のその翻訳にしたってそうだ。いつまでも自由な表現が許されるとは限らない」
 ふと、私の中に睡蓮が荒神舞で口にした言葉が蘇った。

 頬が熱を感じてひりつき、乾いた瞳が自堕落に涙を流し、自分の髪が焼ける匂いがする……そう、その匂いには他人が焼ける匂いも混じっている。空が、山が、燃えている。炎は盆地を舐めつくし、傾斜を駆け上ってゆく。龍神は力を失い、底の、底の、暗い地の奥へ帰るだろう……。

 あれは黒杜の運命を預言したものだった。しかし、本当に一つの村の未来予想図にすぎないのだろうか? いや、そもそもあの託宣を信頼してもいいのだろうか?
 芝浦が厠へ立ったのをきっかけに、私は箸を置いて尋ねた。
「あの予言を信じるの?」
「信じるも何も」碧海はまたお猪口を手にした。「あの巫女の託宣は外れたことがない」
「君はどう思ってる? 睡蓮が発狂した? それとも、本当に荒神が彼女に乗り移ったと?」
「俺には分からん。彼女に鬼が乗り移ったのか、初めから彼女が鬼だったのか」
 私は無言で碧海を見つめた。その尖った喉仏は、彼の懊悩を代弁するようにごくごくと上下に動いている。
「これは俺の想像にすぎないが……鬼は人の一生とは異なる永久の時を生きてるんだろう。奴らからすれば、人間は単なる餌にすぎない。生きるのに必要な技能としてその餌を観察し、行動を分析し、時機を見て爪をかけ、殺して自らの血肉と化す。鼠の生態に誰より詳しいのは猫ってわけだ。そう考えてみれば、鬼が人間の営みを理解していることもさほど異様とは思われない。奴らには愚かな人間の行きつく先がよく見えるんだろう」
「碧海?」
「俺は鼠で構わない」と言って碧海は酒をあおった。「数年はがむしゃらにやるさ。それから、しばらく黒杜で過ごそうと思う。あの家には広い土間がある。それに今は荒れ放題だが畑もあるしな」
「何を考えてる?」
「あの娘の犠牲だよ」
「菫?」
 碧海はうなずいて言った。
「あの娘が犠牲になったのは、荒神舞の託宣を現実にしないためだ。無論、俺にはそんなことが可能かどうか分からない。案外、それを計算に入れたうえでの狂言かもしれないしな。しかし、俺にはあの娘が無理やり犠牲に供されたとはどうしても思えないんだ。逃げる機会はいくらでもあったはずだし、その気になれば東京で女中でも何でもやって生きていけただろう? それをしなかったのは、あの娘が本気で託宣を信じて村を守りたいと思ったか、あるいは……」
「あるいは?」
「そうなることを欲していたか」
 なぜ、という言葉を発する前に、舌が喉に貼りついて動かなくなってしまった。
 菫の瞳に浮かんでいた夕陽の名残のような仄かな明るさと、流れ落ちた涙。それでいて、やはり彼女は微笑んでいた。
「どうやら、俺にも消えた女の謎が解けたらしい」
 次の瞬間、芝浦が衝立の向こうから現れて話は終いになった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み